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【4月30日】1977年(昭52)

【阪神5-4大洋】川崎球場の大洋-阪神4回戦。3点リードの阪神が災難に遭ったのは7回裏からだった。

 大洋・高木嘉一左翼手のファウルチップが、田淵幸一捕手の股間を直撃した。「息もできん…」。苦悶の表情を浮かべた田淵はここで交代。捕手は片岡新之介になった。その片岡も同じ7回、今度は福嶋久晃捕手のファウルチップが右手中指に当たった。

 トレーナーが触っただけで痛がる片岡の指は、腫れ上がっていた。「骨折していると思います」。トレーナーの言葉に吉田義男監督は凍りついた。ベンチ入りの捕手は3人。田淵、片岡のほかに大島忠一捕手を入れていたが、すでに代打で起用してしまった後。交代しようにも選手がいない。片岡はテーピングをしてなんとか7回は守り抜いたが、8回は投手にボールを返球することすらままならなかった。

 8回、江尻亮右翼手が代わった古沢憲司投手から四球を選ぶとすかさず盗塁。片岡は二塁に送球できなかった。無死一、二塁となり1番・山下大輔遊撃手は片岡の前に転がるバント。片岡は素早く拾って一塁へ投げたが、握っただけで激痛が走り悪送球。大洋は片岡への“集中攻撃”で得点を挙げ1点差に迫った。

 「もう指に力が入らないんです」。我慢にも限界があった。片岡は泣きそうな顔になりながら、吉田監督に訴えた。「誰かキャッチャーできんのか!」。一枝修平コーチが悲痛な面持ちで、ベンチ入り選手、果ては主力の藤田平三塁手までに聞いて回った。しかし、中学や高校などを通じても捕手経験のある選手は皆無。ましてプロの投手の球を公式戦で受けるなんて、進んで申し出る者はいなかった。

 いよいよ困った。棄権すれば0-9で負けとなる。1点リードの8回だ。追い込まれたベンチは断を下した--。

 「池辺、おまえがやれ!」。吉田監督と一枝コーチが白羽の矢を立てたのは、池辺巌中堅手。16年目のベテランは、長崎海星高時代は投手としてならしたが、捕手経験はなし。「いつもセンターから投手の球筋を見ているから受けられるだろう」というかなりいい加減な理由で指名されてしまった。

 池辺もチームの危機に「やるだけやってみる」と田淵のミットを借りてレガースとマスクを身に着けて座った。古沢と決めたサインは直球とカーブ、スライダーの三種類。無死二、三塁。一打逆転のピンチに古沢は慣れるまで直球一本の投球をした。勝負度胸満点の下手投げは、高木を三邪飛、清水透内野手を三振にうち取った。

 二死になって売り出し中だった田代富雄三塁手との勝負になった。カウント2-2から、池辺は一か八かの勝負に出た。スライダーのサインを古沢に出した。古沢も覚悟を決めた。ウイニングショットのスライダーはキレ味よく、ストライクからボールゾーンへ滑った。手を出した田代のバットは空を切った。

 8回が始まる時から総立ちだった阪神ベンチはお祭り騒ぎ。汗びっしょりで戻ってきた池辺を迎えると、控え選手はタバコに火をつけ、コップに水を用意。「しんどかったぁ」という池辺の肩を揉む選手さえいた。

 前日29日、9回裏に大洋・清水の放ったレフトへの大飛球を佐野仙好左翼手が捕球したものの、頭をコンクリート製のフェンスにぶつけて骨折。卒倒してしまった。インプレー中との判断で審判団がタイムをかけなかったことから、一塁走者の野口善男内野手が一気に生還。生命にかかわる状況の中で試合を止めなかったのはおかしいと、阪神側は猛抗議したが聞き入れられず後味の悪い引き分けとなった。盛り塩をして30日の試合を迎えたが、負傷者2人を出し、勝つには勝ったが傷だらけの勝利に前途に暗雲が立ち込めた。

 この時点で左手首打撲で掛布雅之内野手、右ひじ痛でマイク・ラインバック外野手が欠場。前年、巨人と最後まで優勝争いをした阪神だったが、77年は鬼門・川崎球場での2日連続して骨折選手を出すなど、けが人続出で7年ぶりのBクラス(4位)に転落。チーム内にも不協和音が広がり、吉田監督は辞任せざるを得なかった。

 吉田監督が復帰し、栄光の阪神日本一をつかみ取ったのは、その8年後のことだった。


【2008/4/30 スポニチ】
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