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【1月30日】2002年(平14)

 野村克也監督から星野仙一監督に代わり、今度こその意気込みでダメ虎からの脱却を図った阪神。新指揮官が「このチームは嬉し涙も知らなければ、悔し涙もしれない」と指摘した体質を変えるべく、男が流す本当の涙の意味を知る高校教師が立ち上がった。

 京都・伏見工高ラグビー部、山口良治総監督。80年代に大ヒットしたドラマ「スクール★ウォーズ」で俳優山下真治が演じた、熱血高校教師にしてラグビー部監督のモデルとなったあの“泣き虫先生”だ。

 かつて京都で最も荒廃していたという伏見工。そのラグビー部をわずか7年で全国優勝させた、元日本代表の名フランカーは大の阪神ファンでもあった。

 高知・安芸でのキャンプ出発の前日、兵庫県西宮市で田淵幸一、島野育夫両コーチをはじめ、タイガースナインが顔を揃え、山口総監督の講義を受けた。フロントが企画した講演だった。

 「プロ野球選手になっただけで満足していないか。負けたことの言い訳ばかりして、人のせいにしていないか。長丁場の(ペナントレースの)中で、負けても仕方がないと自分に妥協していないか。4年連続最下位なんてプロとして許されない。この試合が自分のすべてという気持ちでやらなければ」。山口総監督の熱弁に最前列に座っていた両コーチのほおに熱いものが伝わった。忘れかけていたものを思い出したのか、何人かの選手の目も潤んでいた。

 「ここで優勝が決まるという時の甲子園の雰囲気、自分の気持ちをいつも想像し、涙が出るような、震える気持ちでプレーしてください」。こうしめくくった2時間の“涙の講演”を振り返って島野ヘッドコーチは後に言った。「あの講演が優勝の出発点だった」。

02年こそ、開幕7連勝しながら、矢野輝弘捕手の故障離脱などで4位に終わったが、03年は18年ぶりセ・リーグ優勝。星野監督を支えた名参謀がチーム変革の原点としたのが、山口総監督の熱い想いだった。

 山口総監督は指導者として大切なこととして「指導者自身が気が付くこと」と指摘している。島野は「自分の中にもプロになったこと、球団と契約できたことでホッとしてしまっているところがあった。それに俺はコーチだというおごりもないとは言えなかった。何で選手はこれができないんだと責めることもあったが、それを気付かせて、一緒に課題に取り組んでいこうという気持ちにあらためてなったのが、あの講演だった」と回顧している。

 栃木・作新学院高出身の島野は63年(昭38)、社会人の明電舎から外野手として中日に入団、南海(現ソフトバンク)に移籍後の73年に61盗塁をマーク。3年連続ゴールデングラブ賞を獲得し、76年には阪神へ。80年ーに引退後は阪神、中日でコーチに就任し、長く星野監督と行動を共にした。

 星野との接点は70年。知人を介してのものだった。熱血漢の星野に対し、口数の少ない島野はなぜかウマが合った。星野が中日で2回、阪神で1回の優勝には必ず島野がスタッフとしてかかわっていた。名参謀と呼ばれた男は、巨人V9を支えた故牧野茂ヘッドコーチに憧れ、生前話を聞き、師と仰いでその著書を読みふけり、牧野が考える野球を繰り返し研究したという。

 年下の星野に「島ちゃん」と呼ばれるのも気にせず、カラオケでは都はるみ・岡千秋のヒット曲「浪花恋しぐれ」の詞を変えて「星野のためなら女房も泣かす」とまで歌った。こわもてで練習も妥協しない“鬼軍曹”だったが、一方で選手のことを誰よりも気にかけ、相談役として「オレがやきもちをやくほど、選手に好かれた」と星野は振り返る。

 07年12月15日、胃がんのため死去。享年63歳。亡くなった当日は、五輪日本代表で多忙を極める星野監督が久しぶりの休日だった。星野は弱りきった島野を見舞い、野球の話をした。生涯を閉じたのは星野が病室を後にした直後だった。

 島野が原点を思い返した、キャンプインはもうすぐ始まる。3月5日、京セラドーム大阪での阪神-広島戦は島野の追悼試合に決まった。始球式には星野、受ける捕手には田淵が登場する。阪神ナインはもとより、広島に移籍した元阪神の喜田剛、赤松真人両選手も参加を熱望している。


【2008/1/30 スポニチ】
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