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【1月30日】1993年(平5) 

 手品にダンス、変装からイタズラまでレパートリーは多種多彩。野球をやるよりまずはどうしたら周りにウケるか、どんなパフォーマンスを披露するかを常に考えている?日本ハムのマット・ウインタース外野手が、新入団のリック・シュー内野手とともに来日。大きなトランク3つをカートに乗せて、成田空港に到着した。

 緊張気味のシューに比べ、4年目のウインタースはリラックス。なじみの記者を見つけると、大型のトランクを1つを指してニッコリ。「キャンプを楽しみにしててくれよ」と、新たな出し物の小道具を用意してきたことをアピールした。

 前年92年のキャンプ初日は手品をみせた。新人の女性担当記者を呼ぶと、ハンカチを2枚取り出し、目の前で結んだ。意味不明な呪文を唱えながらそれを女性記者の胸元に入れようとした瞬間、ハンカチを素早く引くと、なんと2枚のハンカチの結び目にはブラジャーが…。見物人は抱腹絶倒、女性記者は自分の着用している下着が取られたと思ったのか、顔を真っ赤にして慌てた。

 その後もおもちゃのヘビを頭に巻いたり、ワイパー付きのサングラスを作って練習に参加したり、1000円札が500円玉に変わるマジックで驚かせたりと“1日1芸”のペースで出し物を披露。練習が休みの時は「今日は休演です」ときっちりパフォーマンスもお休みしたが、夜になると翌日に備えてホテルの自室で“仕込み”に余念がなかった。

 そんなウインタースが中でも大好きだったのがダンス。遠征先の藤井寺球場やグリーンスタジアム神戸などでは、チアガールらの後ろでよく踊っていた。1メートル91、100キロの巨体が軽やかにステップを踏むから大笑い。ファンにも敵味方の選手にも大好評で、これを見た“親分”こと日本ハム・大沢啓二監督が提案した。「東京ドームだけでやったら“ダンス手当”を出してやってもいいぜ」。

 話がどんどん大きくなり、93年にはついにウインタースと一緒に踊るダンスチーム「ファイティーガールズ」が結成された。オーディションには約300人が集まり、ダンスを本格的にやっていた人からレースクイーン、ミスコンの女王らキレイどころ7人が選ばれた。

 初披露は4月17日のオリックス2回戦。頭にセミロングのかつらをかぶり、花柄の短パンの下にピンクのラインが入ったタイツをはいてウインタースも登場。胸には丸い物体を2個入れる凝りようだった。

 前日自打球を右足に当てて、腫れ上がっていたにもかかわらず、2万7000人の観客の笑いを取ると気分は上々。1-0と8回まで緊迫した試合展開に決着をつける4号2点本塁打を放ち、3-0で勝つと「最高だね。踊って打った後のコークは実にうまい」と大好きなコーラを立て続けに3本空にして大声で笑った。

 ニューヨーク・ヤンキースにドラフト1位指名されるが、守備に難点があったためメジャーに昇格したのは11年目。チームはヤンキースではなく、ロイヤルズだった。42試合で2割3分4厘、2本塁打の成績しか残せず、30歳を前に別の道も考え始めていた。

 日本ハムから誘いがあったのはそんな時だった。指名打者制のあるパ・リーグでは守備のまずさ以上に、その長打力に着目した。

 年俸は6000万円。マイナー時代の10倍近くの条件は、妻子持ちのウインタースには魅力的だった。加えてウインタースの父親が日本文化に興味を持ち、中でも赤穂浪士を描いた「忠臣蔵」の大ファン。その影響でサムライの国、日本を身近に感じていたことは、人生の大きな決断に少なからず影響していた。

 来日直後は大振りが目立ったが、もともと選球眼に優れており、慣れてくると持ち前のバッティングセンスを発揮。入団から4年のうち、35本塁打3回、33本塁打1回を記録。試合前はおどけていても、戦いが始まればファイターズの頼れる4番打者だった。

 94年に22本塁打と数字を落とし、上田利治新監督からの構想から外れたために自由契約となり、西武、オリックスなどが獲得検討したが、入団には至らず引退。フロリダ・マーリンズ傘下のマイナーチームのコーチを歴任し、日本ハムとの関係は駐米スカウトという肩書きで続いている。

 陽気なパフォーマンスとは対照的に、敬けんなクリスチャン。パフオーマンスは「野球を楽しくやるためのウォーミングアップさ」と話していたが、試合前にわずかな時間でも心を落ち着かせ聖書を読みふけっていた。彼の本来の姿がそこにはあった。

【2009/1/30 スポニチ】
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