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【1月24日】2007年(平19) 

 44年ぶりの日本一を置き土産に引退した元日本ハムの新庄剛志外野手が付けていた背番号1を継承した、ファイターズのトップバッター、森本稀哲(ひちょり)外野手はキャンプ地である沖縄県名護市にいち早く入り、自主トレ真っ最中だった。

 公私にわたり兄貴分の新庄を慕っていた森本だが、いつまでも偉大な先輩を超えずに止まっているわけにはいかない。意識せずにV2に向かってプレーするためにも、背番号は継いだが、その思いは断ち切る必要があった。

 森本は報道陣に言った。「新聞に記事が出るとツーさん(新庄)が気にしてしまう。だからツーさんに関する質問は禁止ですよ。僕に聞かないでください」。

 半分冗談、半分本気。新庄、という名前が出ただけでピリピリムード、ということはないが、やはりその名を聞けば意識してしまう存在。自ら質問禁止を口にすることで“ひとり立ち”を誓った。

 しかし、2人の関係はそう簡単に切れるものではなかった。尊敬する人には会いたいし、話が聞きたい。名護入りする前、ハワイで始動した森本だが、そこはかつて新庄と自主トレに励んだ場所。新庄も同じ時期にハワイに滞在。時間を作って会い、いろいろなアドバイスを受けた。この日も手にしているのは新庄から譲り受けたバット。“ツーさん”の存在はやはり大きかった。

 「華のある選手になれ」。新庄からもらった言葉で一番に印象に残っているフレーズだ。98年、東京・帝京高からドラフト4位指名を受け日本ハムに入団。俊足と広い守備範囲を生かし、遊撃手から外野に転向。2年目から1軍に顔を見せるようになっていたが、打撃で伸び悩み、トレード候補として名前が挙がることもあった。

 転機は04年。新庄がアメリカから帰国、北海道に移転したばかりの日本ハムを盛り上げようと入団した時だった。「野球選手には必要」と新庄が主張する、目立ちたがり屋の性格が気に入られ、一の子分となると、秘密戦隊「ゴレンジャー」に扮して新庄とともにパフォーマンス。野球でも日常生活でも一挙手一投足、新庄の動きを注目するようになると、課題だった打撃に思い切りが加わり、05年には立派な切り込み隊長として優勝に貢献した。入団8年目、スーパースターの多い“松坂世代”では遅咲きだった。

 ベストナイン、3年連続のゴールデングラブ、史上11人目の2試合連続先頭打者本塁打、球団最多タイの24試合連続安打…。パ・リーグを代表する選手となったが、08年は死球の影響で戦列を離れ、成績は2割5分3厘、本塁打0と精彩を欠きチームV3が断たれた一因となった。

 一時登録を抹消され、これまでの自分を見直す時間ができた。トレードマークのスキンヘッドに一段と磨きをかけ、09年は巻き返しの年となる。

【2009/1/24 スポニチ】
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