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【4月9日】2006年(平18) 

【阪神10-5横浜】「2、3年でダメやろ。とてもじゃないが世界が違う」。プロ野球の世界に足を踏み入れたそれが最初の感想だった。あれから15年たった06年。段違いと感じたレベルの中で生き抜いた男は、世界で一番休まない野球選手となった。

 阪神・金本知憲外野手は米大リーグ、ボルティモア・オリオールズのカル・リプケン内野手が持つ連続全イニング出場903試合の記録を塗り替え、大阪ドームの横浜3回戦で904試合に到達。世界記録を樹立した。

 「僕にとって試合を休むことは、仕事を放棄すること。それにたった1人かもしれんけど、自分だけを見るために球場へ来る人がいるかもしれない。そう思うとグラウンドに立ち続けたかった。どんなに試合は負けていても、ヒット1本は打ちたい」。広島時代の99年7月21日、甲子園での阪神18回戦に4番・左翼で3万1000人の前で先発出場。以来、1度もスコアボードから名前の消えなかった金本は「仕事に対する責任感と強い思い」を抱きながらグラウンドに立ち続けた。メモリアルデーは3打数無安打で2四球。ヒットは打てなかったが、この日は1人どころか3万3438人の観客のすべての視線が背番号6に注がれていたといっても過言ではなかった。

 すべての始まりは何気なく聞こえてきた会話だった。連続フルイニング出場が始まった99年夏、当時広島の監督だった達川晃豊(みつお、現光雄)監督が試合前、中日・星野仙一監督にこんなことを聞いていた。「監督にとって一番いい選手とはどんな選手でしょう?」。星野監督は即答した。「そりゃ、ありがたいのはずっと出続けてくれる選手やろな」。打撃練習中、フリーバッティングの順番待ちをしている時だった。金本の頭の中を電球がビカッと灯ったような気がした。「それならオレにもできるかもしれない」。

 もともと欠場の少ない選手だった。96年は4試合、97、98年は各1試合休んだのみ。この新記録達成時点で1049試合連続出場でプロ野球史上6位の記録だった。球界の中でもハードな練習で知られる広島にあって故障せずに出場するのは至難の業。江藤智内野手、前田智徳外野手ら主力選手がまともにそろえば、セ・リーグ1の破壊力のある打線だったが、毎年ケガに泣かされた。ベストメンバーを組めないことは日常茶飯事。治療のため、チームを離れシーズン中に米国に行く選手さえいた。星野の言葉を聞いて金本は誓った。「監督にとって安心できる選手になろう。オレには代打も代走も守備固めもいらない。オレのことは構わず、監督がもっとほかのことに目を向けられる選手になる」。

 「休みたい」と、思うことは正直いくらでもあった。でもそれは口にしなかった。言葉にしたら最後、緊張の糸がプツリと切れてしまいそうだったからだ。気持ちは強くても試合中のアクシデントは容赦なく襲ってくる。1試合2本塁打を放った阪神移籍2年目の04年7月29日、中日20回戦(甲子園)で金本は岩瀬仁紀投手の投球を左手首に受けた。診断は「左手首軟骨剥離骨折」。「最大のピンチだった。痛くてバット振れんかった」と後日振り返ったが、その時も金本はバットを置かなかった。翌30日の巨人19回戦(甲子園)ではいつも通り4番に座り、実質“右手一本”で2安打を放つと、8月1日の巨人21回戦で阪神・三宅秀史内野手の700試合連続フルイニング出場の記録を破る701試合で日本記録を更新した。

 頭部死球、腰痛、急性胃腸炎…次々と訪れるウクシデント、体の異変にも耐え、08年4月8日現在、連続フルイニング出場は1196試合。連続試合出場は1623となり、日本記録の広島・衣笠祥雄内野手(2215試合)に次ぐ歴代2位。「今年は覚悟している」と、08年はチームに迷惑がかかるようならば、欠場すると決めているようだが、記録はそう簡単に途切れそうもない。

 子どもの頃、身体が小さく茶碗1ぱいのご飯すら泣きながら食べた少年は、プロ入り後欠かすことのなかったウエートトレーニングで鋼の身体を作り上げ、1シーズンフル稼働できる体力を維持してきた。広島・広陵高卒業後、進路が決まらず工事現場でアルバイト生活の中で野球はもうできないと覚悟したことを思えば、毎日大歓声の中でプレーできる今がなんと幸せなことか。4月3日で40歳の不惑を迎えても金本のフル出場人生はまだ終わりそうにない。

【2008/4/9 スポニチ】
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