close
【5月20日】1990年(平2)
【日本ハム11-2ダイエー、近鉄3-2ロッテ】先に勝ったのは一歩出遅れた方だった。山形での日本ハム-ダイエー7回戦は、ファイターズが6回に一挙8点を奪う猛攻でホークスに大勝。ハム先発の西崎幸広投手は7回8安打2失点で完投こそ逃したものの、シーズン4勝目をマークした。
「記念日なんで完投したかったけど、球数が多すぎた。仕方ないですね」と西崎。記念日とはこの1勝で、通算50勝を達成。プロ入り4年目での到達はドラフト制以後9人目で、巨人・江川卓投手以来だった。
その11分後、山形から約200キロ離れた秋田では、同級生が西崎と同じ記録をマークした。ロッテ-近鉄4回戦、近鉄先発の阿波野秀幸投手が完投目前の9回2死まで投げ、7安打2失点。最後は吉井理人投手の救援を仰いだが、なんとか1点差で逃げ切り、シーズン2勝目を挙げた。
「苦しかった。今日勝てたのはみんなのおかげ。よく声をかけてくれて勇気をもらった」と阿波野。謙虚な言葉とともに刻んだ白星はプロ入り50勝目。つまり86年ドラ1の2人が同じ日にわずか約10分違いで、両方とも東北地方の球場で節目の記録を樹立したのだ。
その約1週間前。日生球場で近鉄-日本ハム戦が行われ、2人は顔を合わせた。この時点で阿波野、西崎とも49勝。「日生で会ったときに50勝の話になった。登板日が2人とも20日になる可能性が高かったので、お前が勝つならオレもその日に勝つからって約束してきた」と西崎。阿波野は19日登板と決まったが、雨で試合が流れる“天運”に恵まれ、20日にスライド登板。男の約束はこうやって果たされた。
初勝利は阿波野が87年4月12日。西崎は4月11日の西武2回戦に登板するも敗戦投手となり、初勝利は4月22日のロッテ2回戦(川崎)。一歩先に出たのは阿波野の方だった。以後、白星を重ね続けた2人は稀にみるレベルの高い新人王争いを展開。ともに15勝ずつを挙げたが、阿波野は12敗、西崎は7敗。西崎有利にもみえたが、阿波野は201個の三振を奪った。両リーグただ1人の200越えに加え、西崎より6つ多い22完投が決定打となり、投票では141対51という思わぬ大差で阿波野に軍配が上がった。
今度は西崎がやり返した。翌88年、阿波野は前年並みの14勝をするも西崎は15勝で上回り、最多勝のタイトルを獲得した。
同時に50勝に達したことは、西崎にとって大きな意味があった。「最初はヒデ(阿波野)が先に勝ったけど、50勝は追いついた。うれしいです」。阿波野もライバルの存在を意識していた。「あいつがいたからここまで勝てた。これからも競い合いたい」。この年2人は互いに8勝ずつを積み重ね、通算58勝ずつに。今後、100勝、150勝、200勝ととこまでもしのぎを削るかのように思われた。
運命が大きく変わったのは91年。阿波野は得意のけん制がボークをとられるようになってから自分の投球を見失い、1軍のマウンドから姿を消した。98年、巨人を経て移籍した横浜で勝ち星を挙げるまで、5年間0勝で過ごした左腕はすでに本格派から技巧派になっていた。
2人が同じ土俵で顔を合わせたのは98年の日本シリーズ。阿波野は横浜、西崎は西武と所属球団は変わっていた。先発として投げ合ったのも今は昔、互いにリリーフ投手として活路を見出していた。
拮抗していた勝ち星も西崎は127勝まで伸ばしたが、阿波野は72勝止まり。それでも時代が昭和から平成と移る過渡期に、切磋琢磨した左右の両本格派投手の活躍は永くプロ野球ファンに語り継がれるであろう。
【2008/5/20 スポニチ】
【日本ハム11-2ダイエー、近鉄3-2ロッテ】先に勝ったのは一歩出遅れた方だった。山形での日本ハム-ダイエー7回戦は、ファイターズが6回に一挙8点を奪う猛攻でホークスに大勝。ハム先発の西崎幸広投手は7回8安打2失点で完投こそ逃したものの、シーズン4勝目をマークした。
「記念日なんで完投したかったけど、球数が多すぎた。仕方ないですね」と西崎。記念日とはこの1勝で、通算50勝を達成。プロ入り4年目での到達はドラフト制以後9人目で、巨人・江川卓投手以来だった。
その11分後、山形から約200キロ離れた秋田では、同級生が西崎と同じ記録をマークした。ロッテ-近鉄4回戦、近鉄先発の阿波野秀幸投手が完投目前の9回2死まで投げ、7安打2失点。最後は吉井理人投手の救援を仰いだが、なんとか1点差で逃げ切り、シーズン2勝目を挙げた。
「苦しかった。今日勝てたのはみんなのおかげ。よく声をかけてくれて勇気をもらった」と阿波野。謙虚な言葉とともに刻んだ白星はプロ入り50勝目。つまり86年ドラ1の2人が同じ日にわずか約10分違いで、両方とも東北地方の球場で節目の記録を樹立したのだ。
その約1週間前。日生球場で近鉄-日本ハム戦が行われ、2人は顔を合わせた。この時点で阿波野、西崎とも49勝。「日生で会ったときに50勝の話になった。登板日が2人とも20日になる可能性が高かったので、お前が勝つならオレもその日に勝つからって約束してきた」と西崎。阿波野は19日登板と決まったが、雨で試合が流れる“天運”に恵まれ、20日にスライド登板。男の約束はこうやって果たされた。
初勝利は阿波野が87年4月12日。西崎は4月11日の西武2回戦に登板するも敗戦投手となり、初勝利は4月22日のロッテ2回戦(川崎)。一歩先に出たのは阿波野の方だった。以後、白星を重ね続けた2人は稀にみるレベルの高い新人王争いを展開。ともに15勝ずつを挙げたが、阿波野は12敗、西崎は7敗。西崎有利にもみえたが、阿波野は201個の三振を奪った。両リーグただ1人の200越えに加え、西崎より6つ多い22完投が決定打となり、投票では141対51という思わぬ大差で阿波野に軍配が上がった。
今度は西崎がやり返した。翌88年、阿波野は前年並みの14勝をするも西崎は15勝で上回り、最多勝のタイトルを獲得した。
同時に50勝に達したことは、西崎にとって大きな意味があった。「最初はヒデ(阿波野)が先に勝ったけど、50勝は追いついた。うれしいです」。阿波野もライバルの存在を意識していた。「あいつがいたからここまで勝てた。これからも競い合いたい」。この年2人は互いに8勝ずつを積み重ね、通算58勝ずつに。今後、100勝、150勝、200勝ととこまでもしのぎを削るかのように思われた。
運命が大きく変わったのは91年。阿波野は得意のけん制がボークをとられるようになってから自分の投球を見失い、1軍のマウンドから姿を消した。98年、巨人を経て移籍した横浜で勝ち星を挙げるまで、5年間0勝で過ごした左腕はすでに本格派から技巧派になっていた。
2人が同じ土俵で顔を合わせたのは98年の日本シリーズ。阿波野は横浜、西崎は西武と所属球団は変わっていた。先発として投げ合ったのも今は昔、互いにリリーフ投手として活路を見出していた。
拮抗していた勝ち星も西崎は127勝まで伸ばしたが、阿波野は72勝止まり。それでも時代が昭和から平成と移る過渡期に、切磋琢磨した左右の両本格派投手の活躍は永くプロ野球ファンに語り継がれるであろう。
【2008/5/20 スポニチ】
全站熱搜
留言列表