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【7月28日】1979年(昭54)
【阪神3-2巨人】この日もベンチスタートのはずだった。土曜日の甲子園球場、阪神-巨人19回戦。超満員の5万3000人のお客さんがつめかけたスタンドを見渡しながら「オレもこんなところで試合に出たいなぁ」と思っているところへ、チャンスは突然訪れた。
試合前の練習で足を痛めた、マイク・ラインバック左翼手に代わって、10年目の加藤博一外野手が呼ばれた。試合開始15分前、スタメンはラインバックのまま発表されていたが、1回表の守備から加藤が左翼にそのまま入った。
巨人の先発は“元阪神”の江川卓投手。あの騒動から半年が過ぎたばかり。プロの投手として、甲子園に初登場の“元同僚”に、まさに10年生の意地を見せたのが5回。先頭打者の加藤が打席に入った。
カーブが2球続いてカウントは0-2。「次はストレートしかない」。ただでさえバットを短く持つ加藤が、さらにひと握り短く持った。江川の高めの真っ直ぐに照準を合わせ、打ち負けないためだ。
狙い通りだった。外角高め144キロのストレート。加藤は迷わず振りぬくと、高く舞い上がった打球は右翼へ。山本功児右翼手が背走するも、打球はラッキーゾーンへ飛び込んだ。まるで打球がフェアゾーンにあるかのような全力疾走でダイヤモンドを疾走した加藤。それもそのはず、プロ10年目で1軍公式戦で放った本塁打はこれが初めて。「塁に出ることだけを考えていたので、ホームランとは最後まで気が付かなかった。全力疾走したら、みんなに笑われたよ」。チーム一のひょうきん男は、これまた初のお立ち台でおどけてみせた。
この一発で江川をKOし、その後の“江川に強い加藤”のイメージが定着した。加藤の初本塁打は江川に3つ目の黒星を付けるとともに、阪神の2リーグ分裂後通算2000勝の節目となった。阪神をソデにして巨人へ走った江川に対するわだかまりがまだ充満していた時のメモリアル勝利に、小津正次郎球団社長は大喜び。加藤に高級腕時計をプレゼントした。
佐賀・多久工高(現多久高)からドラフト外で入団したのは1970年(昭45)。国士舘大やノンプロから誘われていたが、プロ野球選手になりたかった加藤は新聞で見た西鉄のテストに応募して合格。支度金5万円、年俸は60万円。支度金は「コタツとふとんを買ったらなくなった。月給5万円で寮費は9000円。バットすらまともに買えなかった」。そのためオフはアルバイト。靴の配送、飲食店の厨房、鮮魚店勤務は「余りものがもらえてよかった」。高給取りと思われがちのプロ野球選手だが、スター選手でなければこれが当時の実態だった。
75年にウエスタンリーグで首位打者を獲得。これから、という時に球団から言い渡されたのが、阪神へのトレード。片岡新之介捕手とともに、五月女豊、鈴木弘規投手との2対2の交換だった。
運命はタイガースで変わった。相変わらず2軍生活だったが、76、77年とウエスタンで盗塁王を獲得。そろそろクビかも、と覚悟し始めた10年目。新監督に就任したのは、ドン・ブレイザーだった。主砲・田淵幸一捕手を放出し、“相撲部屋”といわれた、阪神の体質を走れるチームに改造すべく、加藤はその武器となる足で1軍に登用された。その後、80年には打率3割1分4厘で打撃成績5位で2番打者に定着。大洋移籍後も、高木豊内野手、屋鋪要外野手とともに「スーパーカートリオ」で走りまくった。
90年「もう野球で夢が描けなくなった」と通算成績は1063試合で630安打23本塁打、169盗塁で打率2割7分1厘。強いといわれた江川からの本塁打は3本。テスト生でライオンズ入りした加藤は21年の現役生活を過ごしている間に、西鉄のユニホームを着ていた選手は、若菜嘉晴捕手(日本ハム)と2人になっていた。
08年1月21日、2年間のがんとの闘病生活の末、永眠。享年58歳。4月12日、横浜スタジアムでの横浜-阪神5回戦。両チームで愛された加藤選手の追悼試合として、試合前にセレモニーが行われた。この試合で阪神・金本知憲左翼手が通算2000本安打を達成した。テスト生ながら21年間もプロ野球選手として頑張った加藤選手へ、鉄人からの鎮魂の一打だった。
【2008/7/28 スポニチ】
【阪神3-2巨人】この日もベンチスタートのはずだった。土曜日の甲子園球場、阪神-巨人19回戦。超満員の5万3000人のお客さんがつめかけたスタンドを見渡しながら「オレもこんなところで試合に出たいなぁ」と思っているところへ、チャンスは突然訪れた。
試合前の練習で足を痛めた、マイク・ラインバック左翼手に代わって、10年目の加藤博一外野手が呼ばれた。試合開始15分前、スタメンはラインバックのまま発表されていたが、1回表の守備から加藤が左翼にそのまま入った。
巨人の先発は“元阪神”の江川卓投手。あの騒動から半年が過ぎたばかり。プロの投手として、甲子園に初登場の“元同僚”に、まさに10年生の意地を見せたのが5回。先頭打者の加藤が打席に入った。
カーブが2球続いてカウントは0-2。「次はストレートしかない」。ただでさえバットを短く持つ加藤が、さらにひと握り短く持った。江川の高めの真っ直ぐに照準を合わせ、打ち負けないためだ。
狙い通りだった。外角高め144キロのストレート。加藤は迷わず振りぬくと、高く舞い上がった打球は右翼へ。山本功児右翼手が背走するも、打球はラッキーゾーンへ飛び込んだ。まるで打球がフェアゾーンにあるかのような全力疾走でダイヤモンドを疾走した加藤。それもそのはず、プロ10年目で1軍公式戦で放った本塁打はこれが初めて。「塁に出ることだけを考えていたので、ホームランとは最後まで気が付かなかった。全力疾走したら、みんなに笑われたよ」。チーム一のひょうきん男は、これまた初のお立ち台でおどけてみせた。
この一発で江川をKOし、その後の“江川に強い加藤”のイメージが定着した。加藤の初本塁打は江川に3つ目の黒星を付けるとともに、阪神の2リーグ分裂後通算2000勝の節目となった。阪神をソデにして巨人へ走った江川に対するわだかまりがまだ充満していた時のメモリアル勝利に、小津正次郎球団社長は大喜び。加藤に高級腕時計をプレゼントした。
佐賀・多久工高(現多久高)からドラフト外で入団したのは1970年(昭45)。国士舘大やノンプロから誘われていたが、プロ野球選手になりたかった加藤は新聞で見た西鉄のテストに応募して合格。支度金5万円、年俸は60万円。支度金は「コタツとふとんを買ったらなくなった。月給5万円で寮費は9000円。バットすらまともに買えなかった」。そのためオフはアルバイト。靴の配送、飲食店の厨房、鮮魚店勤務は「余りものがもらえてよかった」。高給取りと思われがちのプロ野球選手だが、スター選手でなければこれが当時の実態だった。
75年にウエスタンリーグで首位打者を獲得。これから、という時に球団から言い渡されたのが、阪神へのトレード。片岡新之介捕手とともに、五月女豊、鈴木弘規投手との2対2の交換だった。
運命はタイガースで変わった。相変わらず2軍生活だったが、76、77年とウエスタンで盗塁王を獲得。そろそろクビかも、と覚悟し始めた10年目。新監督に就任したのは、ドン・ブレイザーだった。主砲・田淵幸一捕手を放出し、“相撲部屋”といわれた、阪神の体質を走れるチームに改造すべく、加藤はその武器となる足で1軍に登用された。その後、80年には打率3割1分4厘で打撃成績5位で2番打者に定着。大洋移籍後も、高木豊内野手、屋鋪要外野手とともに「スーパーカートリオ」で走りまくった。
90年「もう野球で夢が描けなくなった」と通算成績は1063試合で630安打23本塁打、169盗塁で打率2割7分1厘。強いといわれた江川からの本塁打は3本。テスト生でライオンズ入りした加藤は21年の現役生活を過ごしている間に、西鉄のユニホームを着ていた選手は、若菜嘉晴捕手(日本ハム)と2人になっていた。
08年1月21日、2年間のがんとの闘病生活の末、永眠。享年58歳。4月12日、横浜スタジアムでの横浜-阪神5回戦。両チームで愛された加藤選手の追悼試合として、試合前にセレモニーが行われた。この試合で阪神・金本知憲左翼手が通算2000本安打を達成した。テスト生ながら21年間もプロ野球選手として頑張った加藤選手へ、鉄人からの鎮魂の一打だった。
【2008/7/28 スポニチ】
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