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【8月20日】1967年(昭42) 

 【大洋2-0サンケイ】プロ2試合目の登板は過去1度しか来たことのない杜の都・仙台だった。大洋の新人投手・平松政次投手は県営宮城球場(現Kスタ宮城)でのサンケイ(現ヤクルト)20回戦に先発、99球を投げ、5奪三振で散発4安打三塁を踏ませない完封でプロ1勝目を挙げた。

 正捕手だった伊藤勲捕手ではなく、既にコーチ兼任だった岡山東商高の大先輩・土井淳捕手がマスクをかぶり大物ルーキーをリード。ほとんど真っ直ぐとカーブのコンビネーションだけで、サンケイ打線を手玉に取った。

 「嬉しい。ホッとしたと言うか、なんと表現したらいいか分からない」。春のセンバツ、都市対抗の優勝投手もプロでの初勝利はそれほど感動するものであった。嬉しい、と言いながらも、感情を爆発させるというよりは、微笑みをたたえて静かに最初の白星をかみしめていた。

 実は入団して10日しか経っていなかった。8月8日、第38回都市対抗野球で日本石油のエースとしてマウンドに立った平松は5試合に登板し、42回を投げ46奪三振、自責点2の防御率0・42で見事チームを優勝に導いた。その日の夜、日石の合宿所で大洋入団発表。定められた交渉期限まで残り2日というギリギリのプロ入りだった。

 岡山東商卒業時にも第1回ドラフトで中日に3位指名されていた平松だが、当時長嶋茂雄三塁手の大ファンだった右腕は巨人以外眼中になく、社会人へ。1年目から主力として投げ、都市対抗でも4強進出の原動力となった。

 ますます株が上がった平松に、今度は大洋が66年のドラフトで2位指名した。岡山東商の大先輩の大洋・秋山登投手兼コーチ自らが出馬。巨人入りを熱望する平松に「君が憧れている長嶋と勝負するのも一つの道」と口説いた。発想の転換で入団を迫った大洋に平松は「都市対抗で優勝したらプロ入りする」と約束。その通り、世話になった会社に黒獅子旗をもたらすと、MVPとなる橋戸賞獲得を手土産に、66年ドラフト指名選手の交渉期限とされた8月10日に正式契約。背番号は長嶋が付けていた3番が与えられた。

 都市対抗Vから8日後、川崎球場での広島19回戦に“予告先発”。5回を投げ、藤井弘内野手に本塁打を打たれるプロの洗礼を浴びたが、試運転終了後を終えての2試合目の先発で初完封勝利を収めた。

 のちに通算201勝をマークした名球会右腕の実力の片りんを見た初勝利だったが、新人投手にやられた悔しさも手伝って当時のサンケイの選手の評価はというと意外に酷評されている。

 「2三振はしたが、たいしてスピードのある投手でもない。カーブのキレもそれほどではなかった。宮城球場はバックスクリーンが悪いので球の出所が良くないので戸惑った」(豊田泰光一塁手)。「社会人のときに対戦したが大して進歩していない。高めのボールは伸びがあったが低めはこわくない」(武上四郎二塁手)。

 指摘は当たらずとも遠からずだった。1年目3勝(4敗)に終わった平松は、2年目も5勝12敗と伸び悩んだ。アマチュアでは通用したストレートが、プロではポンポン弾き返された。

 入団後、前評判どおりの投球ができなかった平松が、伝家の宝刀・カミソリシュートを完全マスターし、25勝を挙げて沢村賞を獲ったのは4年目の70年(昭45)。翌71年も17勝で最多勝となり、大投手としての歩みが加速した。


【2009/8/20 スポニチ】
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