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【8月30日】1973年(昭48) 

 【日拓5-4近鉄】 神宮球場の観衆は7000人と決して多くはなかったが、その瞬間大いに盛り上がった。6回、無死二塁のチャンスを作った日拓(現日本ハム)は、4番張本勲左翼手が意表をつくバントを試みた。

 一、二塁間に転がった白球に近鉄内野陣も大慌て。自らも生きようとしたセーフティ気味のパントだったが、一塁は間一髪アウト。記録は犠打となった。

 15年目の張本にとってなんとこれが1885試合、7669打席目で初の送りバントとなった。「とにかくランナー進めようと思った。とにかく同点にしたかったんでね。少しスタートが遅れたけど、目的は達成できた。送りバント?プロでも初めてだし、(大阪・)浪商高時代にもやったことがない、生涯初めてだな」。してやったりの表情の張本は、ベンチに戻っても笑いが止まらなかった。

 狙い通りとなった展開で5番・加藤俊夫捕手が張本の心意気に応えて、三遊間を破る適時打を放ち、日拓は同点に。流れをつかんだフライヤーズはリリーフ陣が好投し、8回に勝ち越し点を挙げて4連勝。3位日拓は首位を独走する阪急に7差。後期優勝の可能性は厳しい言わざるを得なかったが、2位ロッテには0・5差。Aクラス死守にベテランが心意気を見せた。

 張本の生涯犠打数4。巨人移籍1年目の76年に1つ、3球団目となったロッテでは80、81年に1回ずつ成功させている。巨人・長嶋茂雄三塁手は17年の現役生活で5本、世界のホームラン王・王貞治一塁手は61年(昭36)4犠打を決めるなど、通算12犠打。本塁打王として全盛時代の68年(昭43)にも1度決めている。

 大リーグ、マリナーズのイチロー外野手はオリックス時代に計9犠打。210安打の日本記録を打ち立てた93年には7犠打を記録。ヤンキースの松井秀喜外野手も巨人時代に2本の犠打があった。

 これだけ実績のある打者でも送りバントの経験がある中、“天才アーチスト”と呼ばれた西武・田淵幸一内野手は、通算1739試合、6875打席で犠打0のまま引退した。

 “チャンス”はあった。広岡達朗監督が指揮を執った82年5月30日、近鉄前期10回戦、無死一、二塁の好機に田淵に送りバントのサインが出た。近鉄・久保康生投手のストレートにバントの構えをした田淵だが腰が引けて、バットにボールは当たったものの、バックネットへのファウル。とても送りバントは無理と判断した西武ベンチは以後田淵にバントのサインを出さなかった。

 現役引退後も分かりやすい解説でネット裏から野球の奥の深さを伝える元スラッガーだが、バントの大切さを強調するシーンを耳にすると、なんとなく現役時代の犠打0の数字が頭に浮かんできてニヤリとしてしまう。


【2009/8/30 スポニチ】
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