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【10月1日】2008年(平20)
【オリックス4-1ソフトバンク】希代のスーパースター、清原和博内野手がオリックスの最終戦となった京セラドームでのソフトバンク24回戦で23年間の現役生活にピリオドを打った。
主役はもちろん、大阪・PL学園高1年の時から四半世紀にわたってスポットライトに当たってきた清原なのだが、彼の最後のユニホーム姿を多くの人々がさまざまな角度から、それぞの思いで見つめていた。
6回の第3打席、カウント2-1からのストレートを右中間へ運んだ清原が通算2122本目の安打を放ち二塁ベース上に立つと、ネット裏貴賓席から温かい眼差しが注がれた。大リーグシアトル・マリナーズのイチロー外野手は、微笑みながら手を叩き、膝の痛みに耐えて二塁まで走った清原を称えた。
9月28日にレギュラーシーズンが終わったばかり。8年連続200安打を放ち、メジャータイ記録を樹立したイチローは、とるものもとりあえず、空路大阪へ駆けつけた。「ひざが悪い清原さんが打席に立つという時はこういう日だと覚悟していた」とイチローは話した。
黒いスーツ姿。いくら急いでいても“正装”で現れたのは、球界の大先輩に対する最大限の敬意だった。巨人を解雇された清原を「大阪へ帰って来い」と誘った故仰木彬オリックス監督が仲立ちし、親交が深まった2人。人知れず、試合開始直前に1人でひっそりと球場入りしたのは、騒がれて主役のプロ最後の舞台を邪魔してはならないという心遣いからだった。
大画面に映し出されたイチローの笑顔に、清原は目を合わせてアイコンタクト。言葉は交わさずとも心の内側は分かった。報道陣の前に現れることもなく、イチローは静かに背番号5を送り出した。
それまで貴賓席にいた男が、ネット裏の観客席に下りてきたのは8回、清原の9428打席目、現役最後の打席だった。PL学園の同級生、元巨人の桑田真澄投手は言った。「最後をみとりたかった。それだけ。表情を生で見たかったんだ」。
豪快な1955個めの空振り三振。清原らしい終わり方に、万感迫るものがあった。「ひざの痛みが限界やけど最後まで頑張りたい」。試合前日、正直な気持ちを清原は電話で桑田に吐露していた。あのドラフトの因縁がありながら、最後に偽らざる心境を口にできたのは、青春時代をともに駆けた無二の親友だった。
球界のアニキにとって、清原の存在は「アニキのアニキ」だった。試合終了後のセレモニーで花束を抱えて登場したのは、阪神・金本知憲外野手。握手を交わすと、こらえていたものが互いの目からあふれ出し、その後は止めることができなかった。
“アニキ”を思うあまり、ライバルである巨人時代の清原にひざの治療器具を持参し、宿泊しているホテルの外でファンの列に並んで手渡したという純な“弟”だった。年齢は1歳しか違わない“兄”に「僕にとってのスーパースター。お疲れさまという気持ちと寂しいっていう気持ちが…」。人前で絶対に泣かない金本が目を真っ赤にしていた。
清原最後の4打席の相手となったのは、1人の投手だけだった。ソフトバンク・杉内俊哉投手は全18球すべてストレート勝負。12年ぶりに最下位の可能性があるソフトバンクにとって清原の引退セレモニーに付き合っている場合ではなかったが、それでも杉内はただの1球も変化球を投げなかった。
それが清原にとっては何よりも嬉しかった。最後の球は139キロ真ん中高めの直球。バットは空を切ったが、ベンチに帰った清原は空振りしたボールにペンを走らせた。
「杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博」。サインボールは最後まで付き合ってくれた左腕に届けられた。「最高ですね」。8敗目を喫したにもかかわらず、すがすがしい背番号47の笑顔がそこにはあった。
【2009/10/1 スポニチ】
【オリックス4-1ソフトバンク】希代のスーパースター、清原和博内野手がオリックスの最終戦となった京セラドームでのソフトバンク24回戦で23年間の現役生活にピリオドを打った。
主役はもちろん、大阪・PL学園高1年の時から四半世紀にわたってスポットライトに当たってきた清原なのだが、彼の最後のユニホーム姿を多くの人々がさまざまな角度から、それぞの思いで見つめていた。
6回の第3打席、カウント2-1からのストレートを右中間へ運んだ清原が通算2122本目の安打を放ち二塁ベース上に立つと、ネット裏貴賓席から温かい眼差しが注がれた。大リーグシアトル・マリナーズのイチロー外野手は、微笑みながら手を叩き、膝の痛みに耐えて二塁まで走った清原を称えた。
9月28日にレギュラーシーズンが終わったばかり。8年連続200安打を放ち、メジャータイ記録を樹立したイチローは、とるものもとりあえず、空路大阪へ駆けつけた。「ひざが悪い清原さんが打席に立つという時はこういう日だと覚悟していた」とイチローは話した。
黒いスーツ姿。いくら急いでいても“正装”で現れたのは、球界の大先輩に対する最大限の敬意だった。巨人を解雇された清原を「大阪へ帰って来い」と誘った故仰木彬オリックス監督が仲立ちし、親交が深まった2人。人知れず、試合開始直前に1人でひっそりと球場入りしたのは、騒がれて主役のプロ最後の舞台を邪魔してはならないという心遣いからだった。
大画面に映し出されたイチローの笑顔に、清原は目を合わせてアイコンタクト。言葉は交わさずとも心の内側は分かった。報道陣の前に現れることもなく、イチローは静かに背番号5を送り出した。
それまで貴賓席にいた男が、ネット裏の観客席に下りてきたのは8回、清原の9428打席目、現役最後の打席だった。PL学園の同級生、元巨人の桑田真澄投手は言った。「最後をみとりたかった。それだけ。表情を生で見たかったんだ」。
豪快な1955個めの空振り三振。清原らしい終わり方に、万感迫るものがあった。「ひざの痛みが限界やけど最後まで頑張りたい」。試合前日、正直な気持ちを清原は電話で桑田に吐露していた。あのドラフトの因縁がありながら、最後に偽らざる心境を口にできたのは、青春時代をともに駆けた無二の親友だった。
球界のアニキにとって、清原の存在は「アニキのアニキ」だった。試合終了後のセレモニーで花束を抱えて登場したのは、阪神・金本知憲外野手。握手を交わすと、こらえていたものが互いの目からあふれ出し、その後は止めることができなかった。
“アニキ”を思うあまり、ライバルである巨人時代の清原にひざの治療器具を持参し、宿泊しているホテルの外でファンの列に並んで手渡したという純な“弟”だった。年齢は1歳しか違わない“兄”に「僕にとってのスーパースター。お疲れさまという気持ちと寂しいっていう気持ちが…」。人前で絶対に泣かない金本が目を真っ赤にしていた。
清原最後の4打席の相手となったのは、1人の投手だけだった。ソフトバンク・杉内俊哉投手は全18球すべてストレート勝負。12年ぶりに最下位の可能性があるソフトバンクにとって清原の引退セレモニーに付き合っている場合ではなかったが、それでも杉内はただの1球も変化球を投げなかった。
それが清原にとっては何よりも嬉しかった。最後の球は139キロ真ん中高めの直球。バットは空を切ったが、ベンチに帰った清原は空振りしたボールにペンを走らせた。
「杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博」。サインボールは最後まで付き合ってくれた左腕に届けられた。「最高ですね」。8敗目を喫したにもかかわらず、すがすがしい背番号47の笑顔がそこにはあった。
【2009/10/1 スポニチ】
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