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【12月6日】1993年(平5)
西武から戦力外通告をされた平野謙外野手のロッテ入りが内定した。年俸は1億400万円から激減して半額以下の5000万円。ロッテ八木沢荘六監督は西武時代にコーチと選手として接点があり、プロ野球初の400犠打の記録を達成した“史上最高の2番打者”を「38歳という年齢を考慮しても、まだ戦力として十分使える」とみていた。
青天の霹靂(へきれき)とはまさにこのことだった。400犠打を成し遂げ、9度目のゴールデングラブ賞を獲得した西武での6年目のオフ。料亭に突然呼ばれた平野は球団から来季は契約しないと通告された。限界に達していたのなら納得もいくが、まだ100試合に出場し、不動の2番としてスタメンに名を連ね、チームの4年連続リーグ優勝にも貢献したという自負があった。まだやれる、と即座に思い、球団に「自由契約にして下さい。自分で行き先を探します」と言って、西武を飛び出した。
後で思えば、伏線があるにはあった。3年連続日本一になったとはいえ、西武・森祇晶監督はチーム内の若返りの機会をうかがっていた。16年目のベテラン・平野は確かに計算できる選手ではあったが、使い続けたのでは若手が伸びてこない。前半戦、平野はベンチを温めるケースが多くなった。勝負のかかったペナントレース後半戦こそ先発出場が増えたが、好機で代打を出される場面もあった。確かに代えられても仕方のない成績ではあった。打率2割3分9厘は82年に中日でレギュラーの座を奪って以来、最低の打率だった。
3勝3敗で迎えたヤクルトとの日本シリーズ第7戦。雌雄を決する最後の大一番で平野は西武で5度目のシリーズにして初めてスタメンを外された。8年目の山野和明外野手が右翼の守備につき、山野が途中交代しても右翼には吉竹春樹外野手が入り、平野は代打にも代走にも出ずに、チームの敗戦をベンチで目の当たりにし、ライオンズでの最後の試合を終えた。森監督の平野に対する評価はこの時出ていたようだった。
西武を解雇された意地で迎えたロッテでの94年のシーズン。4月9日の日本ハムとの開幕戦(東京ドーム)で3安打猛打賞の好スタートを切り、7月7日のダイエー15回戦(福岡ドーム)では通算1500本安打も記録。現役を続けた意味はあったが、残った数字は引き際を考えなければならないものだった。
出場試合数81は81年に1軍のゲームに出るようになってから一番少なく、打率は2割2分7厘とさらに下降した。一時は引退も考えられたが、兼任コーチとして現役を続行。95年はボビー・バレンタイン監督の下、ロッテは10年ぶりの2位となった。
しかし、前年よりも出場機会の減った18年生に球団はコーチのポストを用意し、ユニホームを脱ぐ決断を迫ったが、平野は一度決意した引退を撤回。「(当時の)広岡達朗GMを胴上げしたい」という“理由”をつけ、選手生活を続けた。広岡GMも退任した96年、ようやく平野はバットを置いた。
78年1月になってドラフト外で名古屋商大から投手として入団。中日がドラフト指名選手6人のうち3人の投手に逃げられた(1位の日鉱佐賀関・藤沢公也投手は1年後入団)ための“応急処置”だった。入団後に打者転向も1軍に上がらぬまま、80年に戦力外候補になったが、近藤貞雄新監督が俊足に魅力を感じて抜てきしたのが、一流選手への第一歩だった。
06年から3年間の日本ハムコーチ時代、かつてのバント職人は田中賢介内野手にその技を伝授。田中は師匠・平野のシーズン犠打記録を抜き、優勝にも貢献。“名人の系譜”を絶やさなかった。
【2009/12/6 スポニチ】
西武から戦力外通告をされた平野謙外野手のロッテ入りが内定した。年俸は1億400万円から激減して半額以下の5000万円。ロッテ八木沢荘六監督は西武時代にコーチと選手として接点があり、プロ野球初の400犠打の記録を達成した“史上最高の2番打者”を「38歳という年齢を考慮しても、まだ戦力として十分使える」とみていた。
青天の霹靂(へきれき)とはまさにこのことだった。400犠打を成し遂げ、9度目のゴールデングラブ賞を獲得した西武での6年目のオフ。料亭に突然呼ばれた平野は球団から来季は契約しないと通告された。限界に達していたのなら納得もいくが、まだ100試合に出場し、不動の2番としてスタメンに名を連ね、チームの4年連続リーグ優勝にも貢献したという自負があった。まだやれる、と即座に思い、球団に「自由契約にして下さい。自分で行き先を探します」と言って、西武を飛び出した。
後で思えば、伏線があるにはあった。3年連続日本一になったとはいえ、西武・森祇晶監督はチーム内の若返りの機会をうかがっていた。16年目のベテラン・平野は確かに計算できる選手ではあったが、使い続けたのでは若手が伸びてこない。前半戦、平野はベンチを温めるケースが多くなった。勝負のかかったペナントレース後半戦こそ先発出場が増えたが、好機で代打を出される場面もあった。確かに代えられても仕方のない成績ではあった。打率2割3分9厘は82年に中日でレギュラーの座を奪って以来、最低の打率だった。
3勝3敗で迎えたヤクルトとの日本シリーズ第7戦。雌雄を決する最後の大一番で平野は西武で5度目のシリーズにして初めてスタメンを外された。8年目の山野和明外野手が右翼の守備につき、山野が途中交代しても右翼には吉竹春樹外野手が入り、平野は代打にも代走にも出ずに、チームの敗戦をベンチで目の当たりにし、ライオンズでの最後の試合を終えた。森監督の平野に対する評価はこの時出ていたようだった。
西武を解雇された意地で迎えたロッテでの94年のシーズン。4月9日の日本ハムとの開幕戦(東京ドーム)で3安打猛打賞の好スタートを切り、7月7日のダイエー15回戦(福岡ドーム)では通算1500本安打も記録。現役を続けた意味はあったが、残った数字は引き際を考えなければならないものだった。
出場試合数81は81年に1軍のゲームに出るようになってから一番少なく、打率は2割2分7厘とさらに下降した。一時は引退も考えられたが、兼任コーチとして現役を続行。95年はボビー・バレンタイン監督の下、ロッテは10年ぶりの2位となった。
しかし、前年よりも出場機会の減った18年生に球団はコーチのポストを用意し、ユニホームを脱ぐ決断を迫ったが、平野は一度決意した引退を撤回。「(当時の)広岡達朗GMを胴上げしたい」という“理由”をつけ、選手生活を続けた。広岡GMも退任した96年、ようやく平野はバットを置いた。
78年1月になってドラフト外で名古屋商大から投手として入団。中日がドラフト指名選手6人のうち3人の投手に逃げられた(1位の日鉱佐賀関・藤沢公也投手は1年後入団)ための“応急処置”だった。入団後に打者転向も1軍に上がらぬまま、80年に戦力外候補になったが、近藤貞雄新監督が俊足に魅力を感じて抜てきしたのが、一流選手への第一歩だった。
06年から3年間の日本ハムコーチ時代、かつてのバント職人は田中賢介内野手にその技を伝授。田中は師匠・平野のシーズン犠打記録を抜き、優勝にも貢献。“名人の系譜”を絶やさなかった。
【2009/12/6 スポニチ】
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