close
【12月12日】2000年(平12)
言い返すことのできないくらいはっきりとした態度だった。「来年はこの年俸でやって下さい」。西武の小野賢二球団代表が差し出した書面を見た、西崎幸広投手は声を失うほど驚きの金額が記されていた。
年俸5000万円。前年の1億3000万円から8000万円、62%減の大暴落だった。野球協約では年俸1億円以上の選手が減額される際には限度を30%までとし、それ以上は本人の同意が必要としていたが、想像を絶する減額にも、球団の交渉姿勢は問答無用と言わんばかりの威圧感があった。
かつて日本ハムでエースを張っていた右腕も36歳。かつての威力十分の真っ直ぐは投げられなくなったとはいえ、6勝1敗をマークした00年。判を押す気にはなれない提示額のはずだが、西崎は抗議をすることも反発をすることもなく「分かりました」とだけ答えてサイン。プロ野球史上最大の年俸減額(当時)交渉はわずか30分で成立した。
「納得したからサインしたんです。駄々をこねても仕方がない。それに文句を言ったら切られるだけ。来年も野球ができると思えばまだいい方」と西崎。6勝したとはいえ、リリーフで登板し、チームが逆転して白星が転がりこんだケースが少なくなかった。しかも開幕前に古傷の右足内転筋を痛めて出遅れ、シーズン中も風邪で戦線離脱をするなど、1年を通して活躍できなかった。
97年オフに日本ハムから西武に「拾われた」(西崎)時から3年間、1億3000万円の現状維持で推移してきたが、98、99年は計3勝しかしておらず、覚悟しての契約更改。日本ハム時代は強硬派だったかつて“トレンディ・エース”だが、それは2ケタ勝利を毎年続けていた若い頃の話。力の落ちたベテラン投手は、契約してくれるだけでも…という気持ちが強かった。
半ば退団してもいいよ、と言わんばかりの過酷な条件を提示した小野球団代表だったが、「決して戦力外通告ということではない」と強調。それが証拠に出来高払いの付帯条項を付け、活躍に応じて最大5000万円の補填をするとされていた。あとは西崎が奮起して再起するかどうかにかかっていた。
しかし、芳しくない右足内転筋の状態は、西崎の闘争心に火をつけることを阻んだ。01年9月8日、西武ドームでのオリックス26回戦に先発した西崎は、プロ野球通算80人目2000投球回数を達成したが、この試合で敗戦投手に。以後1試合しか登板せず、ついに15年の現役生活にピリオドを打った。「肩、ひじは問題ないが、いつも痛める右足の治りが遅くなった」と西崎。「同年代が次々辞めていく。世代交代かな」と寂しげだった。
同期入団でいつもしのぎを削ってきた、近鉄・阿波野秀幸投手も前年の00年に引退していた。通算127勝102敗22セーブ。ドラフトを経て87年入団した投手の中では最多の勝ち星を記録している。
【2009/12/12 スポニチ】
言い返すことのできないくらいはっきりとした態度だった。「来年はこの年俸でやって下さい」。西武の小野賢二球団代表が差し出した書面を見た、西崎幸広投手は声を失うほど驚きの金額が記されていた。
年俸5000万円。前年の1億3000万円から8000万円、62%減の大暴落だった。野球協約では年俸1億円以上の選手が減額される際には限度を30%までとし、それ以上は本人の同意が必要としていたが、想像を絶する減額にも、球団の交渉姿勢は問答無用と言わんばかりの威圧感があった。
かつて日本ハムでエースを張っていた右腕も36歳。かつての威力十分の真っ直ぐは投げられなくなったとはいえ、6勝1敗をマークした00年。判を押す気にはなれない提示額のはずだが、西崎は抗議をすることも反発をすることもなく「分かりました」とだけ答えてサイン。プロ野球史上最大の年俸減額(当時)交渉はわずか30分で成立した。
「納得したからサインしたんです。駄々をこねても仕方がない。それに文句を言ったら切られるだけ。来年も野球ができると思えばまだいい方」と西崎。6勝したとはいえ、リリーフで登板し、チームが逆転して白星が転がりこんだケースが少なくなかった。しかも開幕前に古傷の右足内転筋を痛めて出遅れ、シーズン中も風邪で戦線離脱をするなど、1年を通して活躍できなかった。
97年オフに日本ハムから西武に「拾われた」(西崎)時から3年間、1億3000万円の現状維持で推移してきたが、98、99年は計3勝しかしておらず、覚悟しての契約更改。日本ハム時代は強硬派だったかつて“トレンディ・エース”だが、それは2ケタ勝利を毎年続けていた若い頃の話。力の落ちたベテラン投手は、契約してくれるだけでも…という気持ちが強かった。
半ば退団してもいいよ、と言わんばかりの過酷な条件を提示した小野球団代表だったが、「決して戦力外通告ということではない」と強調。それが証拠に出来高払いの付帯条項を付け、活躍に応じて最大5000万円の補填をするとされていた。あとは西崎が奮起して再起するかどうかにかかっていた。
しかし、芳しくない右足内転筋の状態は、西崎の闘争心に火をつけることを阻んだ。01年9月8日、西武ドームでのオリックス26回戦に先発した西崎は、プロ野球通算80人目2000投球回数を達成したが、この試合で敗戦投手に。以後1試合しか登板せず、ついに15年の現役生活にピリオドを打った。「肩、ひじは問題ないが、いつも痛める右足の治りが遅くなった」と西崎。「同年代が次々辞めていく。世代交代かな」と寂しげだった。
同期入団でいつもしのぎを削ってきた、近鉄・阿波野秀幸投手も前年の00年に引退していた。通算127勝102敗22セーブ。ドラフトを経て87年入団した投手の中では最多の勝ち星を記録している。
【2009/12/12 スポニチ】
全站熱搜
留言列表