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【12月11日】2000年(平12) 


 「やっと自分の考える野球ができる場所が見つかりました。その球団はニューヨーク・メッツです」。晴れ晴れとした表情ではっきり断言した時、口にした本人が一番胸の高鳴りを覚えた。

 FA宣言していた阪神・新庄剛志外野手が、大リーグメッツと3年契約したことを明らかにした。3Aなどのマイナーリーグからのスタートではないメジャー契約ではあったが、年俸はメジャー最低保障額の20万ドル(約2200万円、当時)。阪神が残留した場合に提示していた5年12億5000万円はおろか、00年の新庄の年俸7800万円よりも5000万円以上も安い金額で大リーグに挑戦する道を選んだ。

 本音は5年前から海を渡ることを夢見ていたという。FA宣言したのも、ひょっとしたら米国から声がかかるかもしれないと思ったからだった。横浜、ヤクルトがスター性抜群の新庄獲得に名乗りを上げ交渉にあたったが、本人はどこか上の空。その間も密かに大リーグから誘いがこないか、どうか気になって仕方がなかった。

 そろそろ残留か移籍か結論を出さなければならなくなった11月30日、メッツの極東担当スカウトから電話が入った。翌12月1日に秘密裏に1回目の交渉を行い、メッツが獲得の意思があることを知った。「新庄君の守備はチーム力の底上げになる。守ることに関してはイチロー君より上だと思っている。打者としても円熟期に入る時期にきている」と担当スカウトは絶賛した。夢だと思っていたことが、現実になりそうだと思うと、新庄がその気になるのに時間はかからなかった。しかもメッツの本拠地はニューヨーク。何よりも目立つことが好きな男にこれ以上の華やかな舞台はなかった。

 続く6日、午後にヤクルトとの2度目の交渉を前に、メッツ側と接触し、条件提示を受けた。金のことはそんなに気にならなかった。活躍すればインセンティブで2年目以降に日本円にして億単位の年俸が約束される付帯事項も契約に盛り込まれていた。新庄がメッツに要求したのは3つ。(1)専属通訳(2)背番号は1か5にしてほしい(3)住居の斡旋だった。

 何を考えているか分からない言動から、“宇宙人”とも呼ばれていた男の挑戦に周囲の目は厳しかった。「夢を追うのは素晴らしいことだけど、ちょっと苦労するんじゃないの」(阪神・野村克也監督)「イチローと比べるとかわいそうかもしれないけど、米国に行ってもう一回勉強するつもりじゃないと」(ダイエー・王貞治監督)…。同じ00年にひと足先にシアトル・マリナーズ入り決めたイチローには「噂すら聞いていませんでした。どこに行くかは別にして、あまり興味があることじゃなかったし…。人それぞれですから」と関心は薄かった。

 それでも新庄は嬉々として語った。「不安だらけだけど、夢に向かって頑張るだけ。誘われたこと自体嬉しかった。相当レベルが高いし、難しいと思うけど、結構やるじゃないかと目を引くプレーをしたい」。

 その言葉通り、新庄の米国での3年間は目を引く出来事の連続だった。01年の開幕戦で途中出場し、メジャー初安打を記録。8月3日のダイヤモンドバックス戦では日本人初のメジャー4番に座った。翌02年にはジャイアンツに移籍。ワールドシリーズ第1戦に9番・DHで同シリーズ初の日本人選手出場となった。03年再度メッツに戻ったが、最後は3Aで終了。メジャー数球団の誘いを断って日本ハムに入団した。

 夢のメジャーで303試合出場、215安打20本塁打100打点、打率2割4分5厘。数字よりも野球そのものを楽しんだ3年間だった。


【2009/12/11 スポニチ】
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