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【11月28日】1993年(平5) 


 日本プロ野球界に初めてフリーエージェント(FA)制度が導入された93年。阪神・松永浩美外野手を皮切りに次々とセパの有資格者が権利行使に手を挙げた。その中の一人、2年前にトレード志願発言をした通算241本塁打(当時)のオリックスの主砲・石嶺和彦外野手は大モテ。西武、中日、阪神の3球団から熱いラブコールを受けた。

 所属球団以外との交渉が解禁となったこの日、中日、西武のフロントが石嶺と交渉するため大阪入り。両球団とも初対面から条件提示という素早い展開となった。

 まずは中日。落合博満内野手のFA移籍が確実視される中、9年連続2ケタ本塁打の右の長距離砲はどうしても獲得したいところ。伊藤球団代表は「できれば即決してもらいたい。それなりの条件を出した」と駆け引きなしでいきなり勝負に出た。年俸は現状から規定で定められている最大限の1・5倍となる1億650万円を提示。加えて関西から名古屋に転居することをふまえ、住宅の提供を申し出た。さらに来季17年目のベテランに“その後”のことも保障し、引退後は中日グループあるいは地元放送局などで評論家として活躍できるよう便宜を図るという条件を出した。

 続いて西武と顔を合わせた石嶺。中日はフロントのトップ3人が赴いたのに対し、常勝軍団は森祇晶監督自ら出馬。2時間半にわたって日本一奪回を目指すライオンズがいかに石嶺を評価しているかを熱心に説いた。年俸は中日と同じだったが、さらに関東へ移るための支度金3000万円を用意。プラス入団前から「5番・左翼」を確約した。

 どちらも条件として悪くはなかったが、石嶺は回答を保留。後日連絡をするということで初交渉を終えたが、この時半ば結論は出ていた。石嶺の優先条件は2つ。まず「お客さんの多いセ・リーグのチームでプレーしたい」という希望があった。阪急時代からなかなか観客が集まらなかったチームに所属していたことで、この点は渇望していたと言っても過言ではなかった。西武というチーム自体には魅力を感じていたが、もうパ・リーグは卒業するつもりだった。

 かといって中日では生活環境が変わってしまう。沖縄・豊見城高を卒業して以来、関西に住み、一昨年兵庫県宝塚市に家を購入したばかり。名古屋と大阪では新幹線で1時間程度距離だったが、家族のことを思えばその距離は遠かった。

 大観衆の前で試合ができるセの球団で生活基盤が変わらないチームとなると阪神しかなかった。好都合なことに石嶺獲得に一番熱心だったのもタイガースだった。翌30日に中村勝広監督、三好球団社長、阪急時代の打撃コーチだった石井晶チーフ兼打撃コーチと会った石嶺は“2次会”まで付き合い、すしをほおばりながら和気あいあいと今後のことを語り合った。さすがに中日、西武には失礼と即決はしなかったが、12月2日には両球団に断りを入れた後、阪神に世話になる旨の電話を故郷の沖縄から入れた。

 「同じ関西の球団でいつも大観衆の前で試合をする阪神がうらやましかった。1度でいいから巨人戦のお客さんがたくさんいる前で野球がしたかった」と石嶺。阪神初の1億円プレーヤーは、ようやく夢が現実のものとなった。

 しかし、それでホッとしてしまったのか、選手としての峠を越えていたのか、移籍したスラッガーにかつての輝きはなかった。膝のケガもあり、移籍1年目に全130試合出場し、17本塁打77打点の数字を残したが、以後はガタ落ち。96年に26試合1割6分1厘、2本塁打8打点で戦力外通告を受け、現役20年目を前に引退した。

 何の因果か、04年から一度袖にした中日の打撃コーチに就任。2010年で7年目を迎える。


【2009/11/28 スポニチ】

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