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【5月9日】1972年(昭47) 

 【阪神1-0大洋】初回、無死一、三塁。試合開始から5分しか経っていない。肩なんか出来上がっているわけがない。それでも監督が行けと言うのだから仕方がない。阪神の3年目アンダーハンド、上田二朗投手は甲子園での阪神-大洋2回戦に2番手投手として緊急登板した。先発若生智男投手が大洋の2番中塚政幸中堅手の左前打の際、三塁のベースカバーに入ったところ、アキレス腱を痛め、わずか6球で降板したためだった。

 この先どうなることか…。そう思ったのは、上田だけでなく、阪神ベンチも甲子園の虎党も同じだった。しかし、ジタバタしてもしかたがない。「どうにでもなれ、と度胸を決めて投げた」と開き直った上田。3番松原誠一塁手からのクリーンアップ右打者3人をシュートで内野ゴロに仕留め、無得点に抑えるとリズムに乗った。

 2回以降許したのは、2安打2四球のみ。気がつけば投球数96球で、若生が取るはずだった27のアウトすべてを1人で取って“完封”。おまけに好投していた大洋・鬼頭洋投手から6回、左中間を深々と破る大三塁打を放ち、1番に戻って藤井栄治左翼手の犠飛で生還。先制点がそのまま決勝点となり、シーズン初勝利を挙げた。

 これが日本プロ野球界初の完投が認められない、リリーフ投手による完封勝利という珍記録だった。公認野球規則「10・18」にはこうある。

 「完投投手でなければ、シャットアウトの記録は与えられない。ただし、一回無死無失点のときに代わって出場した投手が、無失点のまま試合を終わった場合に限って、完投投手ではないが、シャットアウトの記録が与えられる(以下略)」

 「文字通り阪神にとっては怪我の功名だったね」と苦笑したのは大洋・別当薫監督。いきなり連打を食らった若生が投げ続けていれば、試合は…。“たられば”は勝負事に禁句だが、上田の救援で流れが変わったことは確か。上田と同等の7回3安打と好投した鬼頭が敗戦投手になったことで大洋野手陣は本当に申し訳なさそうに移動のバスに乗り込んだ。

 72年9勝をマークした上田にとって完封勝利はこの1試合だけ。東海大から初のプロ野球選手として69年のドラフト1位で阪神入りし、南海での2年間を含め13年間で92勝(101敗)した、サブマリンにとって、忘れられない1勝となった。

 この“特別完封”のルールが作られたきっかけは、あの強打者ベーブ・ルースにあった。1917年(大6)、大リーグのレッドソックスで投手だったルースは、初回先頭打者を四球で歩かせたが、この判定で激高し審判を侮辱、退場となった。リリーフに立ったのはアーネスト・ショア投手。四球で出塁した走者が二盗を試み失敗すると、ショアはその後の26人を完ぺきに抑えて“リリーフ完全試合”という前代未聞の記録を達成してしまった。

 完全試合として認めるかどうか、米球界で激しい議論となったが、結局パーフェクトゲームが認められ、このルールが出来上がった。ベーブ・ルースが球界に残した“功績”は、大リーグ通算714本塁打だけではなかったのである。


【2009/5/9 スポニチ】
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