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■KANO 1931海の向こうの甲子園

 台湾は、ちょうど半世紀にわたって、日本の一部だった。その時代、何が起きたのか、我々は知っているようで知らない。45年に日本の台湾統治が終わったあと、日本は敗戦から立ち直ることで精いっぱいで、日本の一部だった台湾という土地のことを忘れてしまったようだった。台湾もまた、大陸から来た国民党といういささか乱暴な統治者によって、緊張と抑圧に満ちた時代を迎え、日本の時代を表立って懐かしむことは許されず、多くの記憶が深く埋もれていった。

連載「中華電影城案内」
 そんな台湾で「日本と台湾」というテーマを掘り起こし、次々と刺激的な作品を世に送り出し、しかも、立派な興行成績を残している監督がいる。魏徳聖(ウェイ・ダーション)である。その魏徳聖がプロデューサーとして撮った映画が本作で、昨年台湾で公開され、3億台湾ドル(1台湾ドル=3・8円)を超えるヒットとなった。

 3時間の長い作品だが、緊迫する試合のシーンも多く、あっという間に見終わってしまった感覚だ。台湾版のフィールド・オブ・ドリームスと言ってもいい。青春と夢を野球にかけた男たちの熱い物語である。

 魏徳聖は、台湾南部の台南で時計職人の息子として生まれた。徴兵制のある台湾で兵役中、同じ兵役仲間が映画の仕事をしていたことから映画製作に興味を持ち、楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の製作チームに加入して経験を積んだ。この魏徳聖の名前は台湾の映画史に「海角七号 君思う、国境の南」という映画で刻まれた。08年に公開されて興行収入は台湾映画歴代最高の7億台湾ドルを超えるヒットとなった。

 その当時、私は台湾に住んでいたのだが、その社会現象化はすさまじかった。多くの喫茶店やレストランが「海角」の名前に変えた。陳水扁前総統の不正資金疑惑が7億台湾ドルもあると騒がれた時は「海撈7億(7億をまるもうけ)」と映画のタイトルをもじってやゆされたりもした。

 台湾映画は「前海角時代」と「後海角時代」という風に区分され、まさにエポックメイキングな映画となったのである。

 その後も、魏徳聖は上下あわせて4時間半という大作「セデック・バレ 太陽旗」「セデック・バレ 虹の橋」の二部作を発表し、これも大ヒットとなった。そして本作。まさに台湾映画界の風雲児である。

 「KANO」とは、日本の高校野球の甲子園に戦前出場し、一大旋風を巻き起こして決勝まで進出した嘉義農林学校のことだ。嘉義農林の省略である「嘉農」の日本語発音から来ている。

 日本統治時代の台湾で、嘉義農林というチームにおいて「日本人(大和民族)、台湾人(漢民族)、高砂族(先住民族)」の三つの民族がそろった「三族共和」のチームが組まれ、勝利に向かって民族の差異を乗り越えて戦っていくところが見どころだ。チームを率いるのは日本の松山商業で監督を経験し、自らの暴力事件で失意のうちに台湾に流れてきた近藤兵太郎監督(永瀬正敏)である。

 弱小チームが猛練習と努力で台湾代表を勝ち取り、甲子園でも予想を覆して快進撃を続けた。強豪の札幌商や小倉工を次々と破った。決勝戦で力つきたが、その戦いはあくまで潔く、堂々している。

 「三族共和」を掲げるこの嘉義農林チームに対し、日本人の記者たちが無遠慮に「君たちは日本語が分かるの?」などの質問を投げかけるシーンがある。

 こうした懐疑のまなざしからは、日本からみた「植民地・台湾」への差別感が浮かび上がってくる。しかし、嘉義農林の予想を裏切るほどの快進撃に、記者たちも考え方を改めて応援する側にまわり、嘉義農林の若者たちの奮闘に共感を深めていくのである。

 では、実際に当時の嘉義農林の活躍について、実際の日本社会はどう反応したのだろうか。当時の「東京朝日新聞」の紙面から報道ぶりを追ってみたい。

 昭和6年8月19日の準々決勝で、嘉義農林は札幌商を19対7で破った。翌20日の紙面では焦点は札幌商に置かれており、「嘉農乱打 札幌商惜しくも散る」との見出しで「体格的に大人と子供の観あり、得点の大差はけだし当然の結果であった」と書く。

 20日の準決勝で強豪の小倉工業を10対2で破ると、嘉義農林に対する見方がいささか変わってきたようで、「恐るべき嘉義の猛気」と題して、嘉義農林の実力への驚きを表すサイド記事を掲載しており、次第に嘉義農林旋風が広がっている様子がうかがえる。

 21日の決勝で嘉義農林は惜しくも中京商に0対4で敗れた。しかし、22日の紙面ではほとんどの記事の焦点は嘉義農林に置かれており、その健闘をたたえる論調が目立つ。記事の見出しは「深紅の大優勝旗、中京の手に翻る 武運拙き嘉義農林 全力を傾けて敗れ去る」「嘉義力戦苦闘の跡」などとなっていた。注目すべきは、二本のサイド記事。一つは「総評」という試合の選評のような記事で、「飛田穂洲」という記者は「……突如として台湾の一角に興り……獅子奮迅の活躍を示し経験ある諸チームを尻目にかけての奮戦は何人もこれを賞賛せずにはおかぬであろう」と手放しでほめたたえている。

 また作家菊池寛は「甲子園印象記 涙ぐましい三民族の協調」と題した一文を紙面に寄せている。

 「僕は嘉義農林が神奈川工と戦った時から嘉義びいきになった。内地人、本島人、高砂族という異なった人種が同じ目的のために協同して努力しておるという事が何となく涙ぐましい感じを起こさせる。実際甲子園に来て見るとファンの大部分は嘉義びいきだ。優勝旗が中京に授与された時と同じ位の拍手が嘉義に賞品が授与される時に起つたのでもわかる。ラヂオで聞いているとどんなドウモウな連中かと思うと決してさうでない、皆好個の青年である。そして初めて内地に来て戦っているせいか何となく遠慮深いところもがあるやうだった」

 この菊池の文章ほど、「KANO」の内容が単なる映画の創作ではなかったことを証明するものはないだろう。嘉義農林が甲子園という場で体現した「三族」の協力は当時の日本人をも感動させたのだった。

 「KANO」の上映後、地元の嘉義ではちょっとした騒ぎになった。嘉義は台湾南部にある地域で、台湾きっての観光地、阿里山への入り口で、日本統治時代に大量の巨木を輸出するために設置された阿里山鉄道の起点にもなっている。嘉義の中心部である文化路の噴水円環(ロータリー)には、KANOの主人公の一人であり、嘉義農林の活躍の原動力となった投手・呉明捷のピッチングフォームの様子をかたどった銅像が置かれることになった。私が台湾にいたとき、ここには国父と呼ばれる孫文の銅像が立っていた。孫文の銅像は老朽化のため撤去されたあとだったらしいが、それにしても孫文を押しのけるとは呉明捷が生きていたら何と思っただろうか。

 漢民族の客家出身の呉明捷の投球は「麒麟子」「怪童」と呼ばれるほどすごいもので、その後、早稲田大学に入学し、3年生の時には、首位打者と本塁打王を獲得するなど、日本大学野球界でも大活躍している。

 「KANO」の熱は日本にも伝わり、近藤兵太郎監督の功績をたたえるモニュメントが2014年10月には愛媛県松山市の「坊っちゃんスタジアム」の近くに製作された。モニュメントは「球は霊(たま)なり」を記した大きなボールをかたどり、「KANO」で近藤監督役を務めた俳優・永瀬正敏も除幕式に参加している。

 近藤監督は終戦と同時に日本に引き揚げ、その後も愛媛の新田高校や愛媛大学の野球部で監督を務めた。50年に及ぶ監督生涯をまとめた「近兵諸訓」という本があるが、そこにはモニュメントに刻まれた「球は霊なり、霊正しからば球また正しい、霊正しからざれば球また正しからず」「野球はパーセンテージのスポーツである」「セオリーを身につける」などの野球論が書き込まれている。ここからは、近藤監督が精神性を重んじた指導を行いながら、科学的な指導法も重視した卓越した指導者であったことがうかがえる。

 台湾では、野球が国民的スポーツとして位置づけられている。オリンピックやワールドベースボールクラシックなどの国際大会で、代表チームの活躍に熱狂したり、敗北で落胆したりするのは日本と同じだ。

 明治初期に日本に導入された野球は一種、日本の武士道精神のなかの精神修養を含んだスポーツとして広がり、その体質は日本が統治を始めた台湾にもそのまま移植された。最初は台湾に移住した日本人が楽しんでおり、台湾の人々に受け入れられるまでしばらく時間がかかったが、日本統治から20年が経過した1915年ごろには、各地の学校などにチームができ、高校野球を統括する「北部野球協会」や「南部野球協会」が立ち上がった。

 その頃、日本でも全国高校野球選手権大会、いわゆる甲子園大会がスタートし、最初は日本の外から朝鮮と満州のチームが出場しており、1923年になると、台湾の代表校も出場するようになった。いわば「日本帝国の領土の大会」になったのである。

 1923年の最初の全島野球大会では参加校は4校のみ。台北一中が優勝して第9回の甲子園大会に出場した。その後の8度の大会はすべて台北一中、台北工業、台北商業の北部勢が出場を独占し、南部のチームは弱いということが定説となっていた。これは北部のチームは大半が野球の経験を持っている日本人子弟によって占められており、日本人が少ない南部はその点で不利であるという現実が大きかった。しかし、北部のチームも甲子園では初戦か2戦目で敗退することがほとんどで、本土とのレベルの差は大きく、優勝旗を持って返るなど夢のまた夢という状況だった。

 そんななかで、「KANO」で描かれたように「三民族」共同のチームとして1931年の大会に嘉義農林が出場し、甲子園で旋風を巻き起こして準優勝を勝ち取ったことは、台湾の野球史上においても、日本高校野球の歴史においても、極めて異例と言える出来事だった。その後の甲子園でも台湾、朝鮮、満州の代表チームが決勝まで進出したことは一度もなかった。

 ちなみに、1932年以降、台湾代表は戦前最後の大会が開かれた1942年まで毎年チームを送り出したが、二回戦の壁を破ることは一度もなかった。嘉義農林はこのうち1933年、1935年、1937年に出場しているが、それぞれ初戦敗退、2回戦敗退、2回戦敗退という結果で、再び嘉義農林ブームを巻き起こすことはないまま、終戦を迎え、台湾は日本ではなくなり、甲子園で台湾チームの姿を見ることはなくなった。

 ただ、台湾野球と日本野球の結びつきはその後も完全に切り離されることはなく、少年野球などアマチュアを中心に交流は維持されている。また、台湾プロ野球は日本野球で引退を迫られた選手が再起を図る舞台にもなっており、活発な人的交流が行われているのは、もしかすると嘉義農林が活躍した1931年の甲子園の鮮明な記憶が日本でも台湾でも人々の心に残っていたことが作用しているのかもしれない。

    ◇

・全国で上映中

・公式HP:http://kano1931.com/

■作品インフォ

 日本統治下の1931年に台湾代表として甲子園出場を果たし、決勝まで進出した嘉義農林の実話を基に描く感動作。「海角七号」や「セデック・バレ」などを手がけた魏徳聖が製作総指揮を務め、野球を通して友情と強い絆を育む監督と部員たちの熱いドラマを活写する。永瀬正敏が野球部の監督を熱演し、彼の妻を坂井真紀が演じる。民族の壁を越え、一丸となって戦う球児たちのひたむきさと純真さに心打たれる。(野嶋剛)
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