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【3月6日】1968年(昭43)
【阪神10-1東京】ハワイ・マウイ島キャンプ帰りで、これが国内初のオープン戦となる東京(現ロッテ)と阪神の試合は0-0のまま、4回裏を迎えた。阪神は二死一、三塁の先制機をつくり、打者は7番・本屋敷錦吾二塁手。ここで藤本定義監督は動いた。「ピンチヒッター、カークランド」。
ウィリー・カークランド。ファンにはなじみのない名前だった。契約したのが2月下旬。来日したのがこの4日前の夜。慌しく大阪に移動してきた新外国人は、時差ぼけと格闘しながら、本格的な練習もまだしていなかった。「何本打撃練習で打ってもダメや。実戦で生きた投手の球を打たんと。思い切り振ってこいや」と藤本流の調整法で、無理やりグラウンドに引きずり出されたような形になった。何がなんだか分からないまま、背番号31を付けた黒人外野手は左打席に入った。
マウンド上は成田文男投手。前年の67年、14勝を挙げた21歳の若手成長株の本格派右腕は、ベテラン醍醐猛夫捕手のサイン通りカーブから入った。ボスの助言に忠実に思い切り振ったカークランド。バットを空を切った。2球目もカーブ。ほぼ同じ軌道のボール同じようなタイミングで振れば、結果は同じ。ボールは醍醐のミットの中に収まった。
ストレートのつり球が2球。これは見送った。カウント2-2の5球目。バッテリーは空振りの様子からみて変化球勝負できた。選択したのはスライダー。左打者からみればインコースに曲がってくるボールだった。カークランドは一瞬振るタイミングを遅らせた。十分引きつけてバットを出すと、打球はライナーで右翼へ飛んだ。
山田正雄右翼手が背走する。甲子園のラッキーゾーン前で捕球態勢に入った。が、次の瞬間、打球は山田のグラブをかすめ、フェンスの向こう側に届いていた。
あ然とする成田ら東京ナイン。目を見張る阪神ナイン。来日初打席で目の覚めるような弾丸ライナーの代打3点本塁打。「すごいやっちゃなぁ。いけるでぇ、4番や」と大笑いの藤本監督。カークランドは冷静に言った。「タイミングが合えば、驚くべき当たりではない」。
実はカークランド、れっきとした元大リーガーだった。ジャイアンツなど4球団を渡り歩いたが、ジ軍時代はウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーという野球殿堂入り選手とともにクリーンアップを打っていた、4年連続20本塁打以上のスラッガーでファンには「スリー・ウィリー」として親しまれた人気選手だった。66年にワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)に在籍したが、けがで契約が更新されず半ば引退状態にあったところを、大砲を探していた阪神から話があり来日した。
1年目に37本塁打でそのパワーを発揮、2年目も26本打ったが、三振133個を数え当時の日本記録に。打率も2割5分を下回っており、70年に就任した村山実監督はトレード要員と露骨に名指ししていたが、ひょうきんな性格と巨人戦で活躍するためファンにも人気があり、年齢からくる衰えから毎年自由契約スレスレの成績ながらも、日本で6年間プレー。126本塁打を記録した。
トレードマークはツマヨウジ。これを加えながら打席に立ったことから、後にテレビ時代劇の「木枯らし紋次郎」の主人公の名前を取り「モンジロー」というニックネームが付いた。
ツマヨウジをくわえていたのには理由があった。米国時代に試合中、フェンスに激突して歯を折ったカークランドは義歯を入れていたが、昔噛んでいたガムを噛むことができなくなり、口寂しいためツマヨウジを代用していた。
食事もあまり硬いものはダメで、試合前は決まって大好物のウエハースをいくつも食べるという食生活をしていた。
お守りはウサギの足をかたどったマスコット。メジャー時代、不振にあえいでいた時、知人の8歳になる娘から「これを持っているとヒットが3本打てる」と言われ、試しに身につけると本当に3安打して以来、肌身離さず身につけていた。
退団後は米ゼネラル・モーター社に勤務。タイガース史上、強く印象に残る助っ人の一人だった。
【2009/3/6 スポニチ】
【阪神10-1東京】ハワイ・マウイ島キャンプ帰りで、これが国内初のオープン戦となる東京(現ロッテ)と阪神の試合は0-0のまま、4回裏を迎えた。阪神は二死一、三塁の先制機をつくり、打者は7番・本屋敷錦吾二塁手。ここで藤本定義監督は動いた。「ピンチヒッター、カークランド」。
ウィリー・カークランド。ファンにはなじみのない名前だった。契約したのが2月下旬。来日したのがこの4日前の夜。慌しく大阪に移動してきた新外国人は、時差ぼけと格闘しながら、本格的な練習もまだしていなかった。「何本打撃練習で打ってもダメや。実戦で生きた投手の球を打たんと。思い切り振ってこいや」と藤本流の調整法で、無理やりグラウンドに引きずり出されたような形になった。何がなんだか分からないまま、背番号31を付けた黒人外野手は左打席に入った。
マウンド上は成田文男投手。前年の67年、14勝を挙げた21歳の若手成長株の本格派右腕は、ベテラン醍醐猛夫捕手のサイン通りカーブから入った。ボスの助言に忠実に思い切り振ったカークランド。バットを空を切った。2球目もカーブ。ほぼ同じ軌道のボール同じようなタイミングで振れば、結果は同じ。ボールは醍醐のミットの中に収まった。
ストレートのつり球が2球。これは見送った。カウント2-2の5球目。バッテリーは空振りの様子からみて変化球勝負できた。選択したのはスライダー。左打者からみればインコースに曲がってくるボールだった。カークランドは一瞬振るタイミングを遅らせた。十分引きつけてバットを出すと、打球はライナーで右翼へ飛んだ。
山田正雄右翼手が背走する。甲子園のラッキーゾーン前で捕球態勢に入った。が、次の瞬間、打球は山田のグラブをかすめ、フェンスの向こう側に届いていた。
あ然とする成田ら東京ナイン。目を見張る阪神ナイン。来日初打席で目の覚めるような弾丸ライナーの代打3点本塁打。「すごいやっちゃなぁ。いけるでぇ、4番や」と大笑いの藤本監督。カークランドは冷静に言った。「タイミングが合えば、驚くべき当たりではない」。
実はカークランド、れっきとした元大リーガーだった。ジャイアンツなど4球団を渡り歩いたが、ジ軍時代はウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーという野球殿堂入り選手とともにクリーンアップを打っていた、4年連続20本塁打以上のスラッガーでファンには「スリー・ウィリー」として親しまれた人気選手だった。66年にワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)に在籍したが、けがで契約が更新されず半ば引退状態にあったところを、大砲を探していた阪神から話があり来日した。
1年目に37本塁打でそのパワーを発揮、2年目も26本打ったが、三振133個を数え当時の日本記録に。打率も2割5分を下回っており、70年に就任した村山実監督はトレード要員と露骨に名指ししていたが、ひょうきんな性格と巨人戦で活躍するためファンにも人気があり、年齢からくる衰えから毎年自由契約スレスレの成績ながらも、日本で6年間プレー。126本塁打を記録した。
トレードマークはツマヨウジ。これを加えながら打席に立ったことから、後にテレビ時代劇の「木枯らし紋次郎」の主人公の名前を取り「モンジロー」というニックネームが付いた。
ツマヨウジをくわえていたのには理由があった。米国時代に試合中、フェンスに激突して歯を折ったカークランドは義歯を入れていたが、昔噛んでいたガムを噛むことができなくなり、口寂しいためツマヨウジを代用していた。
食事もあまり硬いものはダメで、試合前は決まって大好物のウエハースをいくつも食べるという食生活をしていた。
お守りはウサギの足をかたどったマスコット。メジャー時代、不振にあえいでいた時、知人の8歳になる娘から「これを持っているとヒットが3本打てる」と言われ、試しに身につけると本当に3安打して以来、肌身離さず身につけていた。
退団後は米ゼネラル・モーター社に勤務。タイガース史上、強く印象に残る助っ人の一人だった。
【2009/3/6 スポニチ】
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