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【2月14日】1994年(平6)
130キロ台後半のストレート、カーブ、シュート、スライダー、フォーク…。持っているボールはすべて惜しみなく使うと決めて、背番号のない真っ白なユニホームを着た右腕はマウンドに立った。
元阪急ドラフト1位投手、野中徹博。1982年(昭52)から83年に春夏の甲子園3回出場し、計10勝を挙げた愛知・中京高(現、中京大中京高)のエースだったあの野中、と言った方がピンとくるかもしれない。1年間に12人しかいないドラフト1位の栄誉をつかみ取った日から11年。一度消えた夢の灯を再度ともすために、中日のキャンプ地沖縄・石川にテスト生として参加していた。
山崎武司、川又米利、そして大豊泰昭といったドラゴンズを代表する打者をはじめ、計10人とシートバッティングで対戦。「大丈夫かな、大丈夫かなと思いながらマウンドに行ったけど、投げ始めたら無心になれた」という野中。計34球、打たれたヒットはわずか1本に抑えた。派手さはない。スピードもそこそこ…。アピールできたかどうか…。ネット裏で見ていた高木守道監督は無言で席を立った。
「いいんじゃないですか。いろんな球種でそれぞれストライクが取れる。ウチにそういうタイプの投手はいないしね。次の登板といわず、結論を出してあげてもいいでしょう」と言って、ニヤリと笑った指揮官。2次試験なし、一発合格のお墨付きをもらった。
「本当ですか?うれしいですね…」。報道陣から高木監督の言葉を聞いた野中は感無量。もっと何かを言いたかったが、目が潤みだした次の言葉が出てこなかった。
三十路にそろそろなろうかという男がうるっと来たのには、歩いてきた道のりをたどればよく分かる。鳴り物入りで入団した阪急で2年目の85年5月8日、平和台球場でのロッテ4回戦、勝ち投手の権利を得てリリーフ陣に後を託したが、逆転負け。初勝利が消えた。ここで1勝できなかったことが、その後の野球人生を別のものにした。
この年7試合登板も勝敗つかず、シーズン途中から右肩痛を発症。続いて急性肝炎、右ひじ痛と次々アクシデントが身に降りかかった。投球フォームも投手コーチが代わるたびにいじくられ、本来の投球スタイルすら忘れてしまった。
5年目で投手失格の烙印を押され、打者に転向。ウエスタンリーグで打率3割を残したが、オフには自由契約選手に。歳月は流れ昭和から平成になっていた。ダイエーのテストを受けたものの不合格。同期のドラフト5位入団で注目度では野中の足元にも及ばなかった、星野伸之投手がオリックスのエースとして15勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得した89年、野中は1勝も挙げることなく、寂しく球界から去った。
地元に帰って健康器具の販売やテレビクルーの助手などを経験した後、札幌でラーメン店の修行を積んだり、東京に出ては広告代理店業に進出したこともあった。東京では漫画家水島新司の軟式野球チームに所属。それなりに野球を楽しんでいたが、一度甲子園の晴れ舞台に立ち、ナイターのカクテル光線を浴びた者にとっては物足りなかった。独りになるとコンクリートの壁に硬式のボールを当て、黙々と投球練習をした。「もう一度プロで野球をやりたい」その思いは日に日に募るばかりだった。
プロを引退してから4年、野中は台湾のプロ・俊国のテストを受け合格。しばらく休眠していたことで右肩の調子は良く、ブランクがありながらも15勝を挙げた。日本球界への復帰に向け準備は整った。満を持しての中日受験だった。
中日での3年間は2敗4セーブに終わったものの夢は続いた。ヤクルトを率いた野村克也監督の「再生工場」に再就職。97年5月27日、横浜9回戦(横浜)でリリーフ登板し、1回3分の2をピシャリ。初勝利を挙げた。プロ野球に所属して計10年、回り道を入れると13年かかってようやく手に入れたプロ初白星だった。
「きょうは赤飯やな」。再生工場長・野村監督が、投手を小刻みにリレーし、野中の勝ち投手の権利が消えないようにしていた気遣いをその言葉とともにかみしめながら、夢追い人は背番号73の後姿に最敬礼した。
【2009/2/14 スポニチ】
130キロ台後半のストレート、カーブ、シュート、スライダー、フォーク…。持っているボールはすべて惜しみなく使うと決めて、背番号のない真っ白なユニホームを着た右腕はマウンドに立った。
元阪急ドラフト1位投手、野中徹博。1982年(昭52)から83年に春夏の甲子園3回出場し、計10勝を挙げた愛知・中京高(現、中京大中京高)のエースだったあの野中、と言った方がピンとくるかもしれない。1年間に12人しかいないドラフト1位の栄誉をつかみ取った日から11年。一度消えた夢の灯を再度ともすために、中日のキャンプ地沖縄・石川にテスト生として参加していた。
山崎武司、川又米利、そして大豊泰昭といったドラゴンズを代表する打者をはじめ、計10人とシートバッティングで対戦。「大丈夫かな、大丈夫かなと思いながらマウンドに行ったけど、投げ始めたら無心になれた」という野中。計34球、打たれたヒットはわずか1本に抑えた。派手さはない。スピードもそこそこ…。アピールできたかどうか…。ネット裏で見ていた高木守道監督は無言で席を立った。
「いいんじゃないですか。いろんな球種でそれぞれストライクが取れる。ウチにそういうタイプの投手はいないしね。次の登板といわず、結論を出してあげてもいいでしょう」と言って、ニヤリと笑った指揮官。2次試験なし、一発合格のお墨付きをもらった。
「本当ですか?うれしいですね…」。報道陣から高木監督の言葉を聞いた野中は感無量。もっと何かを言いたかったが、目が潤みだした次の言葉が出てこなかった。
三十路にそろそろなろうかという男がうるっと来たのには、歩いてきた道のりをたどればよく分かる。鳴り物入りで入団した阪急で2年目の85年5月8日、平和台球場でのロッテ4回戦、勝ち投手の権利を得てリリーフ陣に後を託したが、逆転負け。初勝利が消えた。ここで1勝できなかったことが、その後の野球人生を別のものにした。
この年7試合登板も勝敗つかず、シーズン途中から右肩痛を発症。続いて急性肝炎、右ひじ痛と次々アクシデントが身に降りかかった。投球フォームも投手コーチが代わるたびにいじくられ、本来の投球スタイルすら忘れてしまった。
5年目で投手失格の烙印を押され、打者に転向。ウエスタンリーグで打率3割を残したが、オフには自由契約選手に。歳月は流れ昭和から平成になっていた。ダイエーのテストを受けたものの不合格。同期のドラフト5位入団で注目度では野中の足元にも及ばなかった、星野伸之投手がオリックスのエースとして15勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得した89年、野中は1勝も挙げることなく、寂しく球界から去った。
地元に帰って健康器具の販売やテレビクルーの助手などを経験した後、札幌でラーメン店の修行を積んだり、東京に出ては広告代理店業に進出したこともあった。東京では漫画家水島新司の軟式野球チームに所属。それなりに野球を楽しんでいたが、一度甲子園の晴れ舞台に立ち、ナイターのカクテル光線を浴びた者にとっては物足りなかった。独りになるとコンクリートの壁に硬式のボールを当て、黙々と投球練習をした。「もう一度プロで野球をやりたい」その思いは日に日に募るばかりだった。
プロを引退してから4年、野中は台湾のプロ・俊国のテストを受け合格。しばらく休眠していたことで右肩の調子は良く、ブランクがありながらも15勝を挙げた。日本球界への復帰に向け準備は整った。満を持しての中日受験だった。
中日での3年間は2敗4セーブに終わったものの夢は続いた。ヤクルトを率いた野村克也監督の「再生工場」に再就職。97年5月27日、横浜9回戦(横浜)でリリーフ登板し、1回3分の2をピシャリ。初勝利を挙げた。プロ野球に所属して計10年、回り道を入れると13年かかってようやく手に入れたプロ初白星だった。
「きょうは赤飯やな」。再生工場長・野村監督が、投手を小刻みにリレーし、野中の勝ち投手の権利が消えないようにしていた気遣いをその言葉とともにかみしめながら、夢追い人は背番号73の後姿に最敬礼した。
【2009/2/14 スポニチ】
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