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【8月26日】1970年(昭45) 

 【阪神8-1広島】3回にして試合は荒れていた。ケガ上がりで25日ぶり登板となった広島のエース、外木場義郎投手が阪神・遠井吾郎6号満塁本塁打を浴び、4-1と逆転。さらに一死一塁で打席には7番・田淵幸一捕手を迎えた。

 1打席目で左ひじに死球を受けていた田淵。それでもインコースを嫌がる素振りはなく、2打席目の立ち位置もまったく変わらなかった。ここまで対外木場12打数6安打4本塁打。自信たっぷり、遠井に続いてもう1本という雰囲気だった。

 グランドスラムを食らった上に、その後さらに出塁を許した外木場は、何とか併殺で切り抜けようと、田淵に内角のシュートを初球から投げた。外角球を予想していたのか、田淵はなぜかその球に踏み込んだ。

 コントロールが乱れた球は田淵の頭部めがけて向かってきた。避け切れるはずもない。外木場の重い球質のボールが田淵の左側頭部を直撃。田淵はバットを持ったまま、昏倒した。

 慌てて駆け寄った三塁コーチスボックスの本屋敷錦吾コーチが見たものは、左耳からおびただしい血を流し、ビクリとも動かない巨体だった。顔面蒼白の田淵を見て広島・久保祥次捕手、谷村友一球審は顔を見合わせ、急いで担架を用意するよう大声で叫んだ。騒然とする甲子園、というより驚いた観客は波を打ったように静まり返った。

 「ブチ、大丈夫か?おい、ブチ!」本屋敷コーチの呼びかけにも応じない田淵はそのまま病院に担ぎ込まれた。診断の結果は左側頭葉の脳挫傷、左耳鼓膜一部損傷などで全治3カ月。幸い完治すれば選手生命に支障はないというものだった。

 懸念されたのは死球によるボールへの恐怖。しかし、不幸中の幸いと言うべきか田淵は死球によって「軽い逆行性健忘症」(病院側の説明)にかかり、当たった時の記憶がなく、病院に入院したことも覚えていなかった。病室で何気なく思い出したのは、外木場に当てられる3日前のこと。前年引退し、評論家になっていた金田正一元投手に「お前はよけるのが下手やな。気をつけんと大けがするで」という言葉だった。今から考えれば「あれは虫の知らせだったのかもしれない」とぼんやり考えた。

 10月に退院した田淵は71年のシーズンこそとキャンプから大張り切り。村山実監督の方針で守備の負担が比較的軽い一塁あるいは外野の練習に励んだ。しかし、さらなる災難が田淵を襲った。開幕約2週間前に急性腎炎になり、開幕は絶望。復帰は6月になった。田淵欠場の影響は大きく、前半もたついた阪神は結局5位に低迷。10年ぶりのBクラスとなった。

 後遺症がないといわれた死球だったが、後年ファウルフライを追う際に方向が分からなくなるなどの影響が出た。これが阪神から西武にトレードされた要因の一つでもあったが、西武では一塁に徹し復活を遂げて優勝に貢献。災い転じて福となしたのは、田淵本人の血のにじむような努力に他ならない。

 田淵の死球で残した産物が、耳付きのヘルメット。側頭部を守るために考案された。今では当たり前になったこのヘルメットだが、巨人・王貞治一塁手など、現役を引退するまで着用しなかった選手も多かった。


【2008/8/26 スポニチ】
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