close
【8月2日】1979年(昭54) 

 【巨人4-3広島】 7回裏、2点を追う展開である。広島の先頭打者は大野豊投手。古葉竹識監督は当然代打を送った。マウンドの巨人・江川卓投手に対して左打者を送り出すのがセオリーだが、古葉監督が柏木敏夫球審に告げた選手は右打者だった。「ピンチヒッター、衣笠」。

 前日の1日、同じ7回だった。巨人・西本聖投手が3連続死球という失態を演じた。3人目の被害者が衣笠祥雄三塁手。病院での診察は左肩甲骨亀裂骨折で全治2週間。とてもバットは振れない状態だった。

 だが、この男はいつもと変わらぬフルスイングをした。結果は空振り三振。「江川は後楽園で6月にやった時よりも速かったな」と笑ってみせた衣笠だが、患部を氷水で冷やすと、しばらく動けなかった。衣笠は代打出場で連続試合出場を1123にのばしたが、広島はこの一戦を1点差で落とした。

 衣笠が打てる見込みが薄いのある程度理解した上で指揮官が使ったのは、連続試合出場という記録を最優先した側面が多分にあったことは否定できない。カープナインですらそう思っていた。しかし、打席に入った衣笠の目は投手と真剣に対峙するプロの打者の目だった。結果としては三振だったが、15年目のベテランが見せた野球に対する執念に若手選手は恐ろしさすら感じ、同時に胸が熱くなった。

 歓喜の初優勝から3年。79年は優勝が“至上命令”だった広島が、混戦のセ・リーグを抜け出せたのは、衣笠のフルスイングがきっかけだったと言っても過言ではない。

 巨人に1点差で敗れ5位に転落した広島だったが、半月後の8月17日、横浜での大洋17回戦に競り勝ち首位に躍り出ると、最後まで明け渡さず4年ぶりの優勝、そして日本一となった。

 死球ぶつけた西本にもドラマはある。衣笠に当てた直後、マウンドから駆け下りた西本は大先輩の衣笠に何度も「すみません、すみません」と謝った。バッターボックスに倒れ、痛みでもがいている衣笠から怒鳴られると思った瞬間、こんな声を聞いた。「突っ立てるとケガするぞ。危ないからベンチに帰っていろ」。

 気がつけば、広島ベンチから選手、コーチが飛び出してきた。横では巨人・吉田孝司捕手と広島・田中尊コーチがつかみ合いになっていた。自分の大記録が途切れるかどうかという瀬戸際にみせた、相手投手への気遣い。翌日、フルスイングをした衣笠の姿とともに西本には忘れられない光景となった。

 「プロとは何か」を肌で感じ取った西本は、これを機に成長した。79年8勝止まりも翌80年は初の2ケタ14勝をマーク。以後、6年連続2ケタ勝利をマーク。通算165勝を記録する大投手となった。

 衣笠はその後も連続試合出場を続け、87年6月に大リーグ、ルー・ゲーリッグの持つ2130試合を抜き、世界記録(当事)を達成。2215試合まで記録をのばし引退した。ケガに強く、何があっても試合を休まないその精神は広島カープ出身の平成の鉄人、阪神・金本知憲外野手に受け継がれている。

【2008/8/2 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()