close
【12月28日】2001年(平13)
これほど慌しい入団会見も珍しかった。球団事務所が仕事納めの28日、中日の中村武志捕手の横浜への金銭トレードが決まり急きょ発表された。業務終了1時間前。2年契約で年俸1億2500万円の条件だったが、契約書類が間に合わず年明けにあらためて細部を詰めるという“駆け込み”入団だった。
「17年間お世話になったドラゴンズから横浜ベイスターズという素晴らしいチームでプレーすることになりました。現役最後のつもりで頑張る」と笑顔で話した中村。中日に対しては「意識はしていない」としたが、微笑みの裏に隠された本心は穏やかであろうはずがなかった。
中日はクリスマスイブの24日、FA宣言後、大リーグ挑戦から方向転換した横浜・谷繁元信捕手を4年契約総額12億円で獲得した。山田久志監督は「嬉しくてとび上がった。勇気100倍。すごいクリスマスプレゼントだよ」と大喜び。「肩や足など力量を比べれば谷繁が主となってくるだろうね」と正捕手の座を約束した。
横浜は若手の相川亮二捕手が育ちつつあったが、まだ経験不足。谷繁がいなくなった現実に、中日を2回優勝に導いた中村の実績に頼らざるをえないというのが横浜のホンネだった。
形としてはレギュラー捕手同士のトレードとなったが、山田監督以下、中日側が谷繁獲得に歓喜したのは十分なわけがある。01年、谷繁の盗塁阻止率は5割4分3厘でリーグ1位。対する中村は2割1分8厘と最下位。防御率で横浜の3・75より良い3・48を記録しながら、横浜3位、中日5位の順位は打線もさることながら、捕手の肩の差にもあった。加えて谷繁は01年に自己最多の20本塁打70打点をマーク。かつて20本塁打を放った中村は2本塁打27打点に終わった。肩だけでなく打撃も今脂が乗り切っている谷繁に比べ、かつては強肩と勝負強さがウリだった中村は峠を越えた感が否めなかった。
10年以上ドラゴンズの“正妻”だったことなど、まるで眼中にないかのような指揮官の言葉に中村は当然怒りをあらわにした。「谷繁との共存?そんなことできるわけがない。出場試合数も減る。出してくださいとお願いする。1日も早く自由契約にしてほしい。横浜でも阪神でも、セパ問わない」。“後妻”が入ってくることに、中村のプライドは傷ついた。球団に複数年契約を要求も断られ、ドラフトでは1位前田章宏(中京大中京高)、2位田上秀則(九州共立大)と2人の捕手を上位指名した。まるで、もういらない、と戦力外通告をされたような仕打ちに、27日の中日との交渉の席では目に涙をためて訴えた。「年内じゅうに自由の身にして下さい」。愛着のあった名古屋の街を去る決意は既に固まっていた。
戦力外通告寸前だったドラフト1位捕手を鍛え抜き、鉄拳制裁も辞さず一人前にした恩師星野仙一監督に中村は相談した。この時、星野は中日監督から阪神へと移っていたが、頼ってきた愛弟子を甘やかすことはなかった。「自分で決めろ!」。星野監督らしい“アドバイス”をもらい、中村の気持ちには完全に迷いがなくなった。
だが、現実は厳しかった。移籍1年目、谷繁の盗塁阻止率は4割8分3厘で1位。中村は2割5分6厘で5位で、盗塁を仕掛けられた数は82回と最多だった。横浜で3年プレーした中村だが、相川が成長したことで、05年には球団創立1年目の楽天へ移籍。06年から野村克也監督が就任することで「また野球が勉強できる」と喜んでいたが、無情にも戦力外通告を受けた。3人しか達成していない、捕手としての通算2000試合出場にあと45試合というところでの無念の引退となった。
横浜のファーム、湘南シーレックスのコーチを経て、09年に中日のバッテリーコーチとして復帰。キャンプでかつてバッテリーを組んだ山本昌のボールを受ける姿は、7年ぶりに我が家に帰ってきたという喜びがにじみ出ていた。歳月の流れがそうさせるのか、やはり古巣に対する思いは特別なものがプロ野球選手にはあるようだ。
【2009/12/28 スポニチ】
これほど慌しい入団会見も珍しかった。球団事務所が仕事納めの28日、中日の中村武志捕手の横浜への金銭トレードが決まり急きょ発表された。業務終了1時間前。2年契約で年俸1億2500万円の条件だったが、契約書類が間に合わず年明けにあらためて細部を詰めるという“駆け込み”入団だった。
「17年間お世話になったドラゴンズから横浜ベイスターズという素晴らしいチームでプレーすることになりました。現役最後のつもりで頑張る」と笑顔で話した中村。中日に対しては「意識はしていない」としたが、微笑みの裏に隠された本心は穏やかであろうはずがなかった。
中日はクリスマスイブの24日、FA宣言後、大リーグ挑戦から方向転換した横浜・谷繁元信捕手を4年契約総額12億円で獲得した。山田久志監督は「嬉しくてとび上がった。勇気100倍。すごいクリスマスプレゼントだよ」と大喜び。「肩や足など力量を比べれば谷繁が主となってくるだろうね」と正捕手の座を約束した。
横浜は若手の相川亮二捕手が育ちつつあったが、まだ経験不足。谷繁がいなくなった現実に、中日を2回優勝に導いた中村の実績に頼らざるをえないというのが横浜のホンネだった。
形としてはレギュラー捕手同士のトレードとなったが、山田監督以下、中日側が谷繁獲得に歓喜したのは十分なわけがある。01年、谷繁の盗塁阻止率は5割4分3厘でリーグ1位。対する中村は2割1分8厘と最下位。防御率で横浜の3・75より良い3・48を記録しながら、横浜3位、中日5位の順位は打線もさることながら、捕手の肩の差にもあった。加えて谷繁は01年に自己最多の20本塁打70打点をマーク。かつて20本塁打を放った中村は2本塁打27打点に終わった。肩だけでなく打撃も今脂が乗り切っている谷繁に比べ、かつては強肩と勝負強さがウリだった中村は峠を越えた感が否めなかった。
10年以上ドラゴンズの“正妻”だったことなど、まるで眼中にないかのような指揮官の言葉に中村は当然怒りをあらわにした。「谷繁との共存?そんなことできるわけがない。出場試合数も減る。出してくださいとお願いする。1日も早く自由契約にしてほしい。横浜でも阪神でも、セパ問わない」。“後妻”が入ってくることに、中村のプライドは傷ついた。球団に複数年契約を要求も断られ、ドラフトでは1位前田章宏(中京大中京高)、2位田上秀則(九州共立大)と2人の捕手を上位指名した。まるで、もういらない、と戦力外通告をされたような仕打ちに、27日の中日との交渉の席では目に涙をためて訴えた。「年内じゅうに自由の身にして下さい」。愛着のあった名古屋の街を去る決意は既に固まっていた。
戦力外通告寸前だったドラフト1位捕手を鍛え抜き、鉄拳制裁も辞さず一人前にした恩師星野仙一監督に中村は相談した。この時、星野は中日監督から阪神へと移っていたが、頼ってきた愛弟子を甘やかすことはなかった。「自分で決めろ!」。星野監督らしい“アドバイス”をもらい、中村の気持ちには完全に迷いがなくなった。
だが、現実は厳しかった。移籍1年目、谷繁の盗塁阻止率は4割8分3厘で1位。中村は2割5分6厘で5位で、盗塁を仕掛けられた数は82回と最多だった。横浜で3年プレーした中村だが、相川が成長したことで、05年には球団創立1年目の楽天へ移籍。06年から野村克也監督が就任することで「また野球が勉強できる」と喜んでいたが、無情にも戦力外通告を受けた。3人しか達成していない、捕手としての通算2000試合出場にあと45試合というところでの無念の引退となった。
横浜のファーム、湘南シーレックスのコーチを経て、09年に中日のバッテリーコーチとして復帰。キャンプでかつてバッテリーを組んだ山本昌のボールを受ける姿は、7年ぶりに我が家に帰ってきたという喜びがにじみ出ていた。歳月の流れがそうさせるのか、やはり古巣に対する思いは特別なものがプロ野球選手にはあるようだ。
【2009/12/28 スポニチ】
全站熱搜
留言列表