close
【12月24日】1997年(平9)
晴れの入団会見の席。新人選手は「早く1軍へ上がって…」「初勝利を挙げたい」「初本塁打を打ちたい」などと夢いっぱいの抱負を口にするが、広島のドラフト4位、プリンスホテルから入団した小林幹英投手は会場となった広島市内のホテルで一人の女性を紹介した。
「12月13日に入籍しました。進路がはっきりしたら結婚しようと約束していたもので…」と小林。自分の門出の席で、なんと結婚を発表した。お相手は新潟明訓高の1年後輩で、付き合いは6年に及んだ。小林が専修大、プリンスと東京で生活している間は遠距離恋愛。その試練を乗り越えて、小林が憧れたプロ入りを機に結ばれた。
妻子持ちで入団する選手は時々いるが、入団会見の席上で入籍報告はまれ。「まじめで練習熱心。どちらかというと寡黙」と性格を分析していた担当スカウトの苑田聡彦スカウトだが「以外と目立ちたがり屋だな。プロに向いとる」と新しい一面を見て、今後の活躍を予感した。
その予感どおり、ルーキーイヤーの開幕戦でいきなり初勝利が転がり込むと、その後は連投に次ぐ連投。1年目は54試合に登板し、9勝6敗18セーブ
。前半戦首位を走った広島を支え、新人王こそ中日・川上憲伸投手に譲ったが、リーグ会長特別表彰を受けた。
夫人との恋愛期間は、一方でプロ入りできるかどうかの期待と不安の日々でもあった。高校時代、176センチと投手としては小柄ながら、常時140キロを越える真っ直ぐに、各チームのスカウトが注目。夏の甲子園にも出場したが、最終的に指名球団はなし。広島も最終リストまで残っていたが「ウチの高校生指名条件はよほどの素材を除いて身長180センチ以上。それにコントロールに難があった」(苑田スカウト)と指名を見送った。
専大では日の当たらない東都の2部で投げた。4年の時は小林がエースで、2番手が3年生の黒田博樹投手(広島→ドジャース)。両右腕の活躍で専大は1部に昇格したが、小林は後輩に神宮の舞台を用意しただけで1部では投げられず卒業した。夢のプロ入りもヤクルト、近鉄が最後まで熱心だったが、最終的には回避され、プリンスホテルに入社することになった。
日に日にプロでやりたいという気持ちが募った。特に後輩の黒田が96年に1位指名で広島入りしたのはショックだった。指名候補に名前があがっていたがいつも最後でフラれてしまうのはなぜ?。苑田スカウトは「好不調の波が激しい投手。安定性という面から各球団は二の足を踏んだのでしょう」と欠点を指摘した。プリンスと関係が強い西武は東尾修監督がお忍びで小林が登板した試合を視察したが、その試合に限ってストレートも走らず、コントロールもバラバラ。東尾監督の食指は動かなかった。
しかし、小林の投げる試合をよく見ていた広島は、高校、大学、社会人の間に起きた変化に気がついた。「太ももが太くなっている。走りこんで下半身がしっかりした証拠。プロで伸びる可能性は高い」と判断。折しも現場から「社会人の右投手。リリーフができるタイプがほしい」という要望もあって、小林の存在がクローズアップされた。
海上保安庁勤務の父は転勤族。小林は幼少期を広島で過ごし、初めて見たプロ野球は広島市民球場で。1975年、広島が球団創設以来初の優勝を飾った年だった。母親いわく「初めて口にした言葉がカープ。近所のプールで遊んでいた際、滑り台を下りた時すくい上げてくれたのが、広島の助っ人ゲイル・ホプキンス一塁手だった」。小さい時から広島と“赤い糸”で結ばれていた男だったのである。
【2009/12/24 スポニチ】
晴れの入団会見の席。新人選手は「早く1軍へ上がって…」「初勝利を挙げたい」「初本塁打を打ちたい」などと夢いっぱいの抱負を口にするが、広島のドラフト4位、プリンスホテルから入団した小林幹英投手は会場となった広島市内のホテルで一人の女性を紹介した。
「12月13日に入籍しました。進路がはっきりしたら結婚しようと約束していたもので…」と小林。自分の門出の席で、なんと結婚を発表した。お相手は新潟明訓高の1年後輩で、付き合いは6年に及んだ。小林が専修大、プリンスと東京で生活している間は遠距離恋愛。その試練を乗り越えて、小林が憧れたプロ入りを機に結ばれた。
妻子持ちで入団する選手は時々いるが、入団会見の席上で入籍報告はまれ。「まじめで練習熱心。どちらかというと寡黙」と性格を分析していた担当スカウトの苑田聡彦スカウトだが「以外と目立ちたがり屋だな。プロに向いとる」と新しい一面を見て、今後の活躍を予感した。
その予感どおり、ルーキーイヤーの開幕戦でいきなり初勝利が転がり込むと、その後は連投に次ぐ連投。1年目は54試合に登板し、9勝6敗18セーブ
。前半戦首位を走った広島を支え、新人王こそ中日・川上憲伸投手に譲ったが、リーグ会長特別表彰を受けた。
夫人との恋愛期間は、一方でプロ入りできるかどうかの期待と不安の日々でもあった。高校時代、176センチと投手としては小柄ながら、常時140キロを越える真っ直ぐに、各チームのスカウトが注目。夏の甲子園にも出場したが、最終的に指名球団はなし。広島も最終リストまで残っていたが「ウチの高校生指名条件はよほどの素材を除いて身長180センチ以上。それにコントロールに難があった」(苑田スカウト)と指名を見送った。
専大では日の当たらない東都の2部で投げた。4年の時は小林がエースで、2番手が3年生の黒田博樹投手(広島→ドジャース)。両右腕の活躍で専大は1部に昇格したが、小林は後輩に神宮の舞台を用意しただけで1部では投げられず卒業した。夢のプロ入りもヤクルト、近鉄が最後まで熱心だったが、最終的には回避され、プリンスホテルに入社することになった。
日に日にプロでやりたいという気持ちが募った。特に後輩の黒田が96年に1位指名で広島入りしたのはショックだった。指名候補に名前があがっていたがいつも最後でフラれてしまうのはなぜ?。苑田スカウトは「好不調の波が激しい投手。安定性という面から各球団は二の足を踏んだのでしょう」と欠点を指摘した。プリンスと関係が強い西武は東尾修監督がお忍びで小林が登板した試合を視察したが、その試合に限ってストレートも走らず、コントロールもバラバラ。東尾監督の食指は動かなかった。
しかし、小林の投げる試合をよく見ていた広島は、高校、大学、社会人の間に起きた変化に気がついた。「太ももが太くなっている。走りこんで下半身がしっかりした証拠。プロで伸びる可能性は高い」と判断。折しも現場から「社会人の右投手。リリーフができるタイプがほしい」という要望もあって、小林の存在がクローズアップされた。
海上保安庁勤務の父は転勤族。小林は幼少期を広島で過ごし、初めて見たプロ野球は広島市民球場で。1975年、広島が球団創設以来初の優勝を飾った年だった。母親いわく「初めて口にした言葉がカープ。近所のプールで遊んでいた際、滑り台を下りた時すくい上げてくれたのが、広島の助っ人ゲイル・ホプキンス一塁手だった」。小さい時から広島と“赤い糸”で結ばれていた男だったのである。
【2009/12/24 スポニチ】
全站熱搜