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【8月14日】1982年(昭57) 

 【ロッテ3―2南海】「頼む。捕ってくれ」。祈りながらマウンドの背番号27は大飛球の軌道を追った。9回2死一、二塁。南海の4番ジム・タイロン右翼手のバットから放たれた打球はセンターへ。ロッテ・弘田澄男中堅手が背走した。サヨナラ3ランかとあきらめかけた27番だったが、弘田がグラブを構えると打球はそこに吸い込まれていった。

 熱投164球。2年目の左腕三宅宗源投手が4月18日の阪急3回戦(川崎)以来の2勝目をプロ初完投勝利でつかみ取った。「やっとロッテの投手になれたような気がする。交代せずに使ってくれた監督さんやコーチに感謝したい」。1メートル85、85キロの大男がはにかみながら笑顔を見せた。

 しかし、三宅の“女房”は試合中ずっとカリカリしていた。この日マスクをかぶったのは高橋博捕手。台頭著しい袴田英利捕手ではなく、山本一義監督はプロ初勝利を挙げてから8連敗中の三宅のリードを百戦錬磨のベテランに託した。

 「四球を出すたびに高橋さんにものすごく怒られた。でもそれでファイトがかきたてられた」と三宅。南海に与えた四球は9個。球は滅法速いが、いわゆるノーコン投手だった三宅。左手を離れたら、行く先はボールに聞いてくれ、と言われるほどの制球難。これまで四球で自滅して降板というパターンが続き、白星が付かなかった。

 高橋でなくともイライラしそうな9四球だったが、最速150キロ近いサウスポーはそれでもなんとか抑え切ってしまう。結果オーライと言ってしまえばそれまでだが、捕手としては安心してリードできない。山本監督に「我慢してやってくれ。アイツを一人前にしないといかんのや」と拝み倒されて164球を最後まで付き合った。打っては決勝点となる適時打を放ち、まさに頼れる年上の女房だった。

 姓は三宅だが、本当の苗字は李。台湾出身で高校時代から評判の左投手だった。17歳の時に台湾遠征した早稲田大相手に社会人チームの補強選手として登板。6回まで無安打投球を演じた。以前からその噂を聞きつけマークしていたのが、ロッテの三宅宅三スカウト。ややスリークォーター気味のフォームから繰り出す快速球に「30年の私のキャリアで見たことがない速球。カネやんよりも速い」とほれこんだ。台湾にはまだプロ野球がない時代、三宅はロッテに入団させるべく動いた。

 まず考えたのが養子縁組だった。当時、チームに登録できる外国人は2人まで。三宅スカウトの養子になり、日本国籍を取得することで外国人枠に入らなくて済むからだった。加えて、台湾の徴兵制度もこれで免除になる可能性があった。

 三宅スカウトが養子縁組を急ぎ、76年に届を提出。宗源を中学時代から知っていた南海スカウトがすぐにでも獲得する勢いだったため、どうしても先手を打ちたかったのだ。

 結局、台湾の法律が改正され、宗源は一時軍隊に入ったが、当時95キロ近く体重があったことで「軍服が小さすぎて入らない」という信じられない理由で、わずか1週間で除隊。その後すぐには出国できず、79年オフにロッテに入団した。

 ようやく許可が下り、日本国籍を取得したのは81年。それまでは練習生扱いだった。支配下登録になった左腕に“父親”の三宅スカウトが大毎の現役時代に付けていた背番号27が球団から“息子”に贈られた。

 郭泰源、郭源治、荘勝雄の「2郭1荘」が出現する前に元祖速球王として台湾ではならしたものの、この年の4勝を最後に後は未勝利。83年オフ、監督が稲尾和久に代わると、巨人・山本功児内野手とトレードで移籍。台湾時代の背番号で、巨人では永久欠番になっている「16」を希望するなど、移籍早々注目を浴びたが、1軍登板なしのまま2年で解雇。阪神、ヤクルトなどのテストも不合格で球界を去った。

 引退後は台湾に帰らず、日本で就職。製薬会社に勤め、部長にまで昇進している。


【2010/8/14 スポニチ】

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