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【11月4日】1995年(平7) 

 0勝2敗の成績じゃ、言われても仕方ないかもしれない。が、「それを言っちゃぁおしまいよ」という気持ちが、12年目の左腕にFA移籍を決意させた。

 阪神・仲田幸司投手は秋季キャンプ中の高知県安芸市でFA宣言を行い、タイガースと決別交渉のため帰阪した。「できれば阪神のユニホームを着たいに決まっている…」涙ぐみながらキャンプ地を後にした仲田。あのひと言がなければ、生涯タイガースだったかもしれないという気持ちがこみ上げてきた。

 その1週間前、仲田は球団事務所で阪神・沢田邦昭代表との予備交渉に臨んだ。わずか9試合、勝ち星なしの2敗に終わったシーズンだけに厳しい査定は覚悟していた。仲田は沢田代表に聞いた。「FAしたらどうなります?」。仲田によると、沢田代表の答えはおおむねこのようなものだった。

 「FA宣言をして阪神を出ることになっても、取ってくれるところはない。行使して残留しても年俸の提示(1000万円ダウンの4000万円)は変わらない。つまりキミの権利は価値のない“紙切れ”や」。

 体が凍りついた。12年で通算57勝98敗4セーブ。期待に応えたとはいえない成績かもしれないが、長年選手生活を続けてようやく得た唯一の権利を“紙切れ”と言われたのでは立つ瀬がない。沢田代表は「そんなことを言った覚えはない」と発言を否定。「トレードを含めて考えるが難しい、と言ったことを誤解したのでは」と釈明した。5日、両者は「誤解があった」と和解したが、仲田の気持ちは“さらば阪神”と決めた以上動かなかった。

 仲田の行く先は決まっていた。「広岡(達朗)GMのいるロッテに行きたい。もう一度鍛えてほしい」と熱望。ロッテ側も左腕投手の補強を考えていたため、もろてを上げて歓迎した。

 仲田と広岡GMのつながりは91年秋にさかのぼる。シーズン1勝(7敗)に終わった仲田だったが、阪神キャンプに臨時コーチとして訪れた広岡が「の体重移動に気をつけろ」など、仲田が気がつかなかったことをアドバイス。コツをつかんだ仲田は92年14勝をマークし、ヤクルトと最終戦まで優勝争いをする立役者となった。自身初の2ケタ勝利、そして194奪三振はリーグ最多で初のタイトルホルダーにも輝いた。

 仲田は最初のロッテとの交渉で即決。年俸現状維持の条件で合意すると、その足で埼玉・浦和の2軍専用球場に出向きあいさつ。翌日には練習に参加するという気合いの入れようだった。

 ボビー・バレンタイン監督によって10年ぶりの2位になり、広岡GMの推薦で新監督に就任した江尻亮監督の下、待望の左腕を獲得したロッテだったが、96年は5位に沈んだ。サイドスローに転向した仲田だったが、新フォームはしっくりいかず9試合0勝1敗と完全に期待を裏切り、慕っていた広岡GMも選手からの信頼を失い球団を去った。翌97年10試合に登板したのみで自由契約に。ロッテ初のFA移籍選手はほとんど戦力にならなかった。

 古巣阪神のテストを受け、再起をはかった仲田。かつての阪神ドラフト1位で同じくロッテを解雇され、4年ぶりに投手としての復活にかける遠山昭治と競うことになった。遠山は合格を果たしたが、仲田は中日を自由契約になった松井達徳、日本ハムから解雇された川名慎一両外野手とともに連絡待ちとなった末に不合格に。松井、川名は合格した。

 「これでスッキリしました」と未練を断ち切り引退。解説者に。愛称の“マイク”は米国生まれの仲田のマイケル・フィリップ・ピーターソンという米国名から付けられたものだった。


【2008/11/4 スポニチ】
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