close
【1月19日】1976年(昭51)
いつ、誰が決断するかだけが焦点だった。自他とも認める阪神のエース、江夏豊投手に対し長田陸夫球団社長はトレードを通告した。「きょうの話し合いで江夏君がどのような考えをしているかで処遇を決めようとしていたが、今季は阪神にいてもプラスにならないと判断したのでトレードを通告した」と球団社長。さらに「将来はコーチにも監督にもなれる男。他人のメシを食って勉強してほしい」とも付け加えた。
「迷惑をかけたこともあったが、自分としては9年間、一生懸命やってきた。今の気持ちは寂しい」と江夏。意思の疎通を欠いたことによる村山実元監督との確執、金田正泰前監督とは誰が見ても明らかに反攻的だった。75年から指揮を執った吉田義男監督とは表面上穏やかだったが、互いによそよそしい態度。気持ちが通じ合うことはなかった。「江夏がいてるから阪神は優勝できない」9年間で159勝を挙げた左腕だが、チームメイトからもこんな声が上がる始末で居場所はどこにもなくなっていた。
長田球団社長は「江夏君がどのような考えをしているかで処遇を決める」と述べたが、江夏放出の噂はシーズン中からあった。チーム内で浮いた存在の左腕にパ・リーグを中心にトレード話が持ち込まれ始めたのは75年夏ごろからだったという。太平洋クラブは外国人のビュフォード外野手を、この年初の日本一を勝ち取った阪急も左腕投手2人との交換で打診。大沢啓二監督になった新体制の日本ハムは金に糸目をつけない金銭トレードの話を持ち込んだ。
しかし、それより先に阪神は本業では商売敵である南海にターゲットを絞って江夏放出を模索していた形跡がある。“反逆児”江夏豊をもてあまし気味だった吉田義男監督は、シーズン中に南海・野村克也監督と接触、江夏を中心とした複数トレードを打診していた。日ごろから江夏の投球術を高く評価していた野村監督の好みを知っての誘いかけであった。吉田監督はトレード通告がされた時に「知らなかった。フロントに任せてあった」と話しているが、エースのトレードに監督が知らないわけがない、と考えるのが妥当しいうものだろう。
南海側は江夏獲得の線でチーム編成を進め、早い段階でトレード要員を決定。江夏に最後通告がされた時点で江本孟紀、長谷川勉、池内豊の3投手の名前がすぐに上がった。恐らく江夏が移籍を簡単に承諾しないとみた南海側が積極的に情報を流し、阪神と江夏に早く“覚悟”を決めさせるため、交換相手を早々と半ば公表していたふしがある。
これに阪神・望月充、南海・島野育夫の両外野手を加えて2対4の大型トレードに発展。阪神は佐藤正治外野手も付けて3対4で応じようとしたが、江夏の“おまけ”扱いに怒った佐藤はこれを拒否。6年間通算133安打2本塁打の成績を残し、さっさと引退してしまった。
一時江夏はトレードを拒否し、現役引退を真剣に考えた。それを止めたのが野村監督だった。トレード騒動のさ中、江夏と野村監督はホテルで密かに会った。野村は「早くスッキリして一緒に野球をやろう」というような、ありきたりの言葉はひと言も発せず、野球の話に終始した。その中で野村は75年10月1日の阪神-広島26回戦(甲子園)で満塁、カウント2-3の究極のピンチで江夏が見せた、あえてボール球を投げて衣笠祥雄三塁手を空振り三振に仕留めた場面の話をした。「わざと投げたな」と野村は暗にその投球術をほめた。奇しくもこの日の投球が江夏の阪神での最後の白星だった。
野村流の口説き方だった。ひねくれねのの江夏に独特の“ラブコール”は効果てき面、江夏は回答期限の1月23日に移籍を承諾。会見の席上「野村監督には魅力を感じている」と述べた。
江夏は野村監督の解任騒動で運命を共にして南海を2年で出た後、磐石の抑え投手として広島、日本ハムを優勝に導いた。有名な「野球の革命を起こそうや」のセリフで先発完投にこだわった江夏をストッパーに転向させたのは野村。“優勝請負人”江夏誕生の金言だった。
81年に「ベンチがアホやから野球がでけへん」の言葉を残し引退した江本も阪神のエースとして5年間活躍。実績のなかった池内も阪神でリリーフとして一時代を築いた。
島野は移籍先の阪神でコーチを務め、03年には星野仙一監督の名参謀として優勝に貢献した。1つの大型トレードが個人の運命だけでなく、やや大げさに言えばプロ野球界全体の歴史をも左右したのである。
【2009/1/19 スポニチ】
いつ、誰が決断するかだけが焦点だった。自他とも認める阪神のエース、江夏豊投手に対し長田陸夫球団社長はトレードを通告した。「きょうの話し合いで江夏君がどのような考えをしているかで処遇を決めようとしていたが、今季は阪神にいてもプラスにならないと判断したのでトレードを通告した」と球団社長。さらに「将来はコーチにも監督にもなれる男。他人のメシを食って勉強してほしい」とも付け加えた。
「迷惑をかけたこともあったが、自分としては9年間、一生懸命やってきた。今の気持ちは寂しい」と江夏。意思の疎通を欠いたことによる村山実元監督との確執、金田正泰前監督とは誰が見ても明らかに反攻的だった。75年から指揮を執った吉田義男監督とは表面上穏やかだったが、互いによそよそしい態度。気持ちが通じ合うことはなかった。「江夏がいてるから阪神は優勝できない」9年間で159勝を挙げた左腕だが、チームメイトからもこんな声が上がる始末で居場所はどこにもなくなっていた。
長田球団社長は「江夏君がどのような考えをしているかで処遇を決める」と述べたが、江夏放出の噂はシーズン中からあった。チーム内で浮いた存在の左腕にパ・リーグを中心にトレード話が持ち込まれ始めたのは75年夏ごろからだったという。太平洋クラブは外国人のビュフォード外野手を、この年初の日本一を勝ち取った阪急も左腕投手2人との交換で打診。大沢啓二監督になった新体制の日本ハムは金に糸目をつけない金銭トレードの話を持ち込んだ。
しかし、それより先に阪神は本業では商売敵である南海にターゲットを絞って江夏放出を模索していた形跡がある。“反逆児”江夏豊をもてあまし気味だった吉田義男監督は、シーズン中に南海・野村克也監督と接触、江夏を中心とした複数トレードを打診していた。日ごろから江夏の投球術を高く評価していた野村監督の好みを知っての誘いかけであった。吉田監督はトレード通告がされた時に「知らなかった。フロントに任せてあった」と話しているが、エースのトレードに監督が知らないわけがない、と考えるのが妥当しいうものだろう。
南海側は江夏獲得の線でチーム編成を進め、早い段階でトレード要員を決定。江夏に最後通告がされた時点で江本孟紀、長谷川勉、池内豊の3投手の名前がすぐに上がった。恐らく江夏が移籍を簡単に承諾しないとみた南海側が積極的に情報を流し、阪神と江夏に早く“覚悟”を決めさせるため、交換相手を早々と半ば公表していたふしがある。
これに阪神・望月充、南海・島野育夫の両外野手を加えて2対4の大型トレードに発展。阪神は佐藤正治外野手も付けて3対4で応じようとしたが、江夏の“おまけ”扱いに怒った佐藤はこれを拒否。6年間通算133安打2本塁打の成績を残し、さっさと引退してしまった。
一時江夏はトレードを拒否し、現役引退を真剣に考えた。それを止めたのが野村監督だった。トレード騒動のさ中、江夏と野村監督はホテルで密かに会った。野村は「早くスッキリして一緒に野球をやろう」というような、ありきたりの言葉はひと言も発せず、野球の話に終始した。その中で野村は75年10月1日の阪神-広島26回戦(甲子園)で満塁、カウント2-3の究極のピンチで江夏が見せた、あえてボール球を投げて衣笠祥雄三塁手を空振り三振に仕留めた場面の話をした。「わざと投げたな」と野村は暗にその投球術をほめた。奇しくもこの日の投球が江夏の阪神での最後の白星だった。
野村流の口説き方だった。ひねくれねのの江夏に独特の“ラブコール”は効果てき面、江夏は回答期限の1月23日に移籍を承諾。会見の席上「野村監督には魅力を感じている」と述べた。
江夏は野村監督の解任騒動で運命を共にして南海を2年で出た後、磐石の抑え投手として広島、日本ハムを優勝に導いた。有名な「野球の革命を起こそうや」のセリフで先発完投にこだわった江夏をストッパーに転向させたのは野村。“優勝請負人”江夏誕生の金言だった。
81年に「ベンチがアホやから野球がでけへん」の言葉を残し引退した江本も阪神のエースとして5年間活躍。実績のなかった池内も阪神でリリーフとして一時代を築いた。
島野は移籍先の阪神でコーチを務め、03年には星野仙一監督の名参謀として優勝に貢献した。1つの大型トレードが個人の運命だけでなく、やや大げさに言えばプロ野球界全体の歴史をも左右したのである。
【2009/1/19 スポニチ】
全站熱搜
留言列表