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【8月5日】1990年(平2) 

 【西武5-2近鉄】6回裏、960グラムのバットが146キロのストレートをとらえた。6日ぶりの感触とともに、打球を左翼席に運んだのは西武の4番・清原和博一塁手。22歳11カ月と18日。プロ野球最年少での通算150本塁打達成の瞬間だった。

 「今まで対戦した中できょうが一番速かった。アイツから打てたのは一生の思い出になります」。背番号3は無邪気に喜んだ。アイツとは、近鉄のスーパールーキー・野茂英雄投手。清原が「一番速かった」と言った通り、この日の野茂は西武から計10個の三振を奪い、シーズン13度目の2ケタ奪三振を記録。71年に鈴木啓示投手(近鉄)が記録した、12度を8月の時点で更新してしまった。

 清原は1三振したものの、本塁打を含む3安打2打点。このルーキーを認めているからこそ、打てたことが素直に嬉しかった。

 7月30日、オリックス15回戦(西宮)でシーズン23号、通算149号本塁打を放った清原だが、その後15打数2安打と“夏休み”。チームも3連敗した。「勝てないのは4番が打たないから」。常勝ライオンズにファンの目は厳しい。清原に情け容赦のない罵声が飛んだ。

 5日、地元西武球場での近鉄戦前、広野功打撃コーチが付きっきりで「ロングティテー」を納得するまで行った。「コーチも裏方さんも暑いのに早く出てきて下さってる。今日は打たないと…」。

 心中期するものがあった。練習前、ゆっくりとダイヤモンドを一周した。一塁ベースを回ると、右手を高く上げガッツポーズ。三塁コーチャーがいるかのように、手を合わせるふりをしてホームに還ると、両手を掲げバンザイ。ホームランのイメージトレーニングはその夜に実を結び、シーズン4度目の大入り5万人の観衆の前で野茂からメモリアルアーチを記録した。

 野茂は決して言い訳をしなかった。「すべて僕が悪いんです。初回に3点も取られちゃ…」。近鉄打線は13残塁の拙攻。渡辺久信投手に163球を投げさせながら、最後までつぶすことができなかった。仰木彬監督も「渡辺と互角に投げ合ったのに、攻守で足を引っ張ったな」と野茂を擁護したが、それでもドクターKは自分が先に点を取られたことに納得していなかった。「清原さんの150号?打たれたのは僕の責任です」。自分を責める言葉しか、この日の野茂は口にしなかった。

 この時点で野茂対清原は18打数9安打、打率5割と清原に分があった。本塁打も2本記録していたが、三振も5つ。ストレートは打ち崩していたが、野茂の天下の宝刀フォークボールでは、三振に仕留められていた。「次はあのフォークを打たんとアカン」と清原は次の目標を定めた。

 あれから18年。08年に野茂は日本球界に復帰することなく引退を表明した。現役23年目の清原もその“決断”をする時期が近づいている。“平成の名勝負”といわれた2人の真剣勝負も今では歴史の1ページとなってしまった。

【2008/8/5 スポニチ】
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