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【1月22日】1979年(昭54) 


 79年の阪神は看板選手だった田淵幸一捕手と古沢憲司投手を放出し、福岡から所沢に引っ越すことになったライオンズからトレードで4人の選手を獲得した。

 ベテラン強打者の竹之内雅之内野手、巨人・長嶋茂雄監督もその肩にほれ込んだ若菜嘉晴捕手、リリーフ左腕の竹田和史投手、そして俊足好打の真弓明信内野手の移籍組みはこの日、甲子園での自主トレに参加。「大阪に骨を埋めるつもりでいる」と4人とも異口同音に阪神での活躍を誓った。

 新生西武ライオンズの「チームの柱、旗艦がほしい」と根本陸夫監督が田淵に目を付けて始まった2対4の大型トレード。阪神新監督に就任したドン・ブレイザーは、主砲田淵を手放すにあたって交換条件として1人の選手だけはどうしても譲らず、それがダメならトレードはご破算、と決めていた。それが真弓だった。ブレイザーは言った。「彼は今のタイガースに欠けているものを持っている。第一に走れること、第二に思い切りの良さ、そして体にバネがある。近い将来、チームを背負って立つことになる」。

 本塁打王も獲った、セ・リーグでは巨人・王貞治一塁手と日本人でキング争いができる代表的な打者だった田淵と、入団6年目でようやく規定打席に達し、2割8分の成績を残したばかりの若手選手ではどうにも釣り合いが取れなかった。それでも“相撲部屋”と呼ばれ機動力が使えず、最下位に沈んだチームから脱却するには、阪神にはいないタイプの選手が必要だった。真弓は78年に34盗塁を決めたが、単独スチールで失敗したのはわずかに1度だけ。積極果敢な走塁は他球団の評価も高かった。ブレイザー監督こそ、新生タイガースの“旗艦”の役割を真弓に求めたのだった。

 

 その真弓は阪神移籍で張り切っていた。「足を期待されている?34盗塁はセの盗塁王の(巨人)柴田(勲)さんと同じ数。頑張ります」と自主トレ段階から飛ばした。真弓が生き生きしているのには2つの理由があった。

 真弓がプロに入った73年、チーム名は西鉄から太平洋に変わり、4年後にはクラウンになった。九州の雄、西鉄は福岡出身の真弓にとっては憧れだったが、そのユニホームに袖を通すことができなかった。移籍した阪神は巨人と並ぶ老舗球団。ようやく伝統のあるチームで野球ができると思うと正直嬉しかった。事実、トレードの話が来た時、真弓は。「セ・リーグだったらテレビに出る機会も多く、名前も売れるからやりがいがある」とすぐに思ったという。

 みじめな食事もとらなくて済むのも嬉しかった。遠征先でのナイター後の夜食は球団がホテルなどで用意するものだが、ライオンズは太平洋になってから1日1000円を選手に支給していた。これで好きなものを食べろという意味だったが、まるでアメリカのマイナーリーグの選手のようで、他球団は口にこそ出さなかったが、ライオンズの選手は恥ずかしさでいっぱいだった。クラウンにチーム名が変わると、財政難からその1000円も支給されなくなった。阪神ではそんな心配をする必要がない。それだけでも誇らしかった。

 ブレイザー監督が予言したとおり、真弓は阪神の1番打者として85年の日本一にも貢献。トレードで同時に移籍してきた選手の中でも一番息の長い選手となった。しかし、移籍の時点で30年後に監督に就任するとは、この時誰も思っていなかったに違いない。


【2010/1/22 スポニチ】
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