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【4月20日】2001年(平13) 

 開幕して3週間、横浜、中日両球団から発表されたトレード成立の発表は周囲を驚かせた。横浜の波留敏夫外野手と中日の種田仁内野手、山田博士投手の1対2の交換が成立。異例のシーズン中の同一リーグトレードとなった。

 戦力の不足を補う意味で、ペナントレースが始まってからトレードが行われることは珍しくないが、それはリーグの違う球団同士での話。交流戦のない時代、常に顔を合わせる同一リーグ間のトレードは、情報流失などチームの極秘事項が漏れることを恐れ、互いに敬遠していたが、掟破りの“商談”を成立させたのは、横浜・森祇晶監督だった。

 「フロント主導でまとめてくれた話。球界には開幕後の同一リーグ球団とのトレードは控える傾向にあったけど、もうそんな時代ではないだろう」と森監督は報道陣に語った。が、それは表向き。横浜の体質改善を標榜して就任した中で、チームに足りないコマの補充を模索し、水面下では積極的に動いていたと見られる。

 トレードを申し込む以上、申し込む側がそれなりの選手を放出しなければ、狙っている選手は獲得できない。森監督は派手さはないが、野球を熟知しているバイプレーヤー的な存在の内野手と先発、中継ぎの両方ができる馬力のある投手を補強ポイントの1つに挙げていた。

 キャンプ中からフロントを通して打診したものの、色よい返事はなく、無理を承知で中日・星野仙一監督に“直談判”。NHK解説者時代に親交を深めた2人だが、7年ぶりに球界に復帰した苦しむ先輩に後輩の星野監督が助け舟を出す形で、代打として11打席連続出塁し、カムバック賞を受賞した使い勝手のいい種田と素材としてはかなりのものがあり、環境を変えれば伸びる可能性のある山田の放出を決定。森監督とはそりが合わないが、星野監督好みのガッツあふれるプレーヤー、波留の移籍が決まった。

 前日中日行きを言われていた波留は、横浜スタジアムでの巨人戦を前にベイスターズナインにあいさつ。98年の日本一戦士は、途中感極まって涙を流したが、「気持ちの整理はついた。この世界、試合に出てなんぼの世界。出られるところに行くだけ」と暗に森監督に干されていたことを口にして、中日の遠征先の甲子園へ向かった。

 翌21日に種田と山田は早くも横浜で入団会見。波留もそうだったが、種田と山田も既に背番号が決定。12番に決定した種田はユニホームまで用意され、移籍発表翌日に1軍登録。巨人5回戦に3番・三塁でスタメンに名を連ねるほど。前日の敗戦で自身の監督生活で最多の借金7を背負った名将がチーム活性化のカンフル剤をいきなり投入した。

 種田は1安打1打点を記録し、4―3のスコアで勝ったチームに貢献。後に「ガニマタ打法」がファンの間に浸透し、Tシャツまで製作され、右翼スタンドでは「タネダンス」なる応援スタイルまで浸透するほど人気者になった。

 一方の波留は前年に痛めた、左太ももの故障が後を引きずり、中日では期待通りの活躍ができず、03年ロッテへ。横浜時代の輝きを出せないまま04年に引退。トレードをめぐる物語は本当に尽きない。

【2011/4/20 スポニチ】
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