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【9月27日】2004年(平16)

【オリックス7-2近鉄】劇的な優勝から3年。パ・リーグで唯一経営母体が代わらず、55年間頑張ってきた近鉄がヤフーBBスタジアム(現スカイマークスタジアム)でその歴史にピリオドを打った。

 相手は奇しくも合併相手となるオリックス。ブルーウェーブの愛称がバファローズに代わるといっても、球団そのものがなくなるという寂しさぬぐえなかった。

 1950年(昭25)3月12日、藤井寺球場で行われた毎日1回戦から数えて7252試合目。勝敗は3261勝3720敗271分。黒星でスタートした近鉄球団の戦いの歩みは、最後も黒星。3年前、史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、リーグ優勝を決めた北川博敏内野手が4回に左翼席へ20号ソロを叩き込んだのが、最後の得点となった。

 実際には3日前の24日、4万8000人が別れを惜しんだ大阪ドームでの本拠地最終戦で西武にサヨナラ勝ちしたのが本当の意味でのフィナーレだったといえる。1、2軍全選手がドームに集まり、ケガで出場が絶望視されていた吉岡雄二内野手や、かつての守護神赤堀元之投手が登板するなど、チーム一丸となって臨んだ試合だった。

 球団消滅。その心中は察するに余りある。近鉄で才能が開花した北川は練習中から真っ赤な目をして泣きはらしていたし、主砲中村紀洋内野手も、岩隈久志投手も顔を上げていられなかった。どの選手も「寂しい」と言っては、鼻をすすり、笑顔が泣き顔になった。

 オリックス戦終了後、胴上げされた近鉄16代目にして最後の監督となった梨田昌孝監督は「1年でも長くユニホームを着られるように頑張ってくれ」とバラバラになる猛牛戦士励ました。そう言うのが精一杯。笑顔がトレードマークだった指揮官は、人前で初めて号泣した。

 球団設立時の愛称は公募で決定した「パールス」。59年に巨人の名二塁手“猛牛”千葉茂を監督に迎えて「バファロー」(62年からバファローズ)に変えてもなかなか勝てない時代が続いた。

 4回のリーグ優勝も日本一は12球団の中で唯一達成できず、哀愁漂うチームだったが、豪快で規格外れなカラーはプロ野球ファンの記憶から消えることはない。  

【2007/9/27 スポニチ】
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