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 ■連続出場記録にこだわり

 ストレートが顔面に迫る。のけぞって避(よ)けたが、ビシッという鈍い音とともに、左手首の骨が砕けた。

 「前の打席でホームランを打ってたんで、インコースで体を起こしたかったんでしょう。力が入ったのかな」

 阪神タイガースが日本一に輝いた翌年の昭和61年4月20日。その日まで続いていた記録に、死球が終止符を打った。56年の開幕戦から5年と少しをかけて積み上げた663試合連続出場。それは掛布が「タイトルよりもこだわっていたこと」だった。

 「僕はね、監督が(先発選手の)メンバー表を作るときに、考えなくてもいい選手になりたかったんです。最初に書き込んでも、最後まで空けといてもらってもいい。ただ『4番、サード掛布』だけはいつも決まってる。そういう選手であり続けたかった」

 全試合に出る。休んでファンを失望させたくない。それがミスタータイガースの誇りだった。死球のあとも「出る」と言いはった。医師に「無理です」とギプスをはめられた。全治4週間。ところが5日後には、ギプスを切ってしまったのだという。「マスコミにはわからないように、取り外しのできる特製ギプスを作ってね。試合が始まると誰もいなくなるから室内練習場で練習した」

 天才型ではない。練習の虫といわれた。調子が落ち込んだときも素振りと打ち込みが脱出法だった。でも、骨折に練習は無謀だった。いまは自分でもこう振り返る。

 「きちっと休んで、いい状態で戻ったほうがよかったかなとも思います」。無理はたたる。それからの選手生活は、繰り返される故障とケガとの闘いになった。

 「痛みとはつきあえても、気持ちの糸が切れたときに、もう一回結ぶのにどんどん苦労するようになった。ファンを裏切りながら野球をやるなら、ユニホームを脱ごうと思いました。でも、悔いは残ってないですよ。入ったのがテスト生ですから」

 早すぎると惜しまれつつ、33歳という若さで引退を決意した。63年10月10日、甲子園で迎えた最後の試合。村山実監督がスタメン表を書いた。真っ先にこう記した-と思いたい。

 「4番、サード掛布」=敬称略(文 篠原知存)

【2007/12/7 MSN産経ニュース】
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