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【1月5日】1970年(昭45)
巨人入りを希望し、クラウンライター(現西武)のドラフト1位指名を蹴って米国へと“留学”した江川卓投手より8年前、ジャイアンツ入りを熱望した東京六大学のスラッガーがいた。
69年、阪神に入団した田淵幸一捕手に次ぐ19本塁打を神宮でかっ飛ばした早大の荒川堯内野手。巨人・王貞治一塁手の一本足打法の生みの親、荒川博巨人打撃コーチの息子(養子)は、69年の第5回ドラフト会議で大洋に1位指名されたが、これを拒否。米大リーグのキャンプ地をめぐる武者修行の浪人生活を決意した。
大洋側も簡単に諦めるつもりはなく、年明けからの交渉再開を荒川側に伝えていた矢先の1月5日、事件は起きた。
午後9時15分ごろ、東京都中野区の自宅近くの路上で犬の散歩をしていた荒川は突然何者かに後方から襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られその場でダウン。「たった1発で頭がもうろうとしてしまった。最後は複数だと思うが蹴られたりもした。やり返す余裕はなかった」という荒川は、巨人専属トレーナーの吉田接骨師の診断を受け後頭部の打撲と、左手の亀裂骨折で全治2週間。年末から風邪気味で休んでいた日課の愛犬の散歩を再開させた直後の災難だった。
犯人はいったいだれなのか。荒川家には十分思い当たるふしがあった。大洋入団拒否が伝えられた後「野球ができないようなな体にしてやる」とか「覚えていろ」という脅迫電話が数回あり、身の危険を感じていた。警視庁野方署は「大洋入団を拒んだ荒川選手をうらんだ計画的犯行」とみて、捜査を始めた。
翌6日、お見舞いにと大洋の宮崎剛チーフスカウトが荒川邸を訪問。門前払いこそなかったものの、荒川は頭に包帯を巻きながら、大洋入りの意志のないことを改めて強調。暴漢に屈せず、自らの信念を通してアメリカ行きの考えを示した。
傷も完治しないまま、2月に渡米すると、父のつてを頼ってサンフランシコ・ジャイアンツ、ロサンゼルス・ドジャースなどのスプリングキャンプに参加。ここで腕を磨いたが、慣れない生活に体調を崩したり、不安定な精神状態に悩まされる日々が続いた。
その間に荒川を取り巻く環境は厳しさを増していった。恋焦がれた巨人、特に川上哲治監督は王のコピーのような一本足打法の荒川に興味を示さず、一浪しても次のドラフトで指名しない方針であることが明らかになり、逆に選手としての旬の時期を過ぎてしまうことから二浪はないと踏んだ各球団、とりわけスターを欲しがっていたパ・リーグは指名に積極的という流れが出来上がりつつあった。
それならばと荒川は第2志望であったヤクルトに照準を合わせた。一度大洋に入団し、しかるべき時期にヤクルトへ移るという三角トレードで希望をかにえるというもので、それに呼応するようにヤクルト・松園尚巳オーナーも獲得への意欲をみせ、大洋側も見返りに投手が獲得できるなら、と応じる構えをみせた。
当時はその年のドラフトが行われる1カ月前までに契約を済ませなければ、交渉権は無効になることから、荒川は9月に緊急帰国。リミットまであと2日の10月7日に大洋と契約をした。背番号は3。入団発表の席に本人不在という異様なプロ入りだった。
当初「大洋のユニホームを着ることはない」とホエールズの森茂雄代表は話していたが、みえみえの三角トレードに憤慨した鈴木龍二セ・リーグ会長は「練習に参加させるように」と大洋に要請。ホエールズナインの奇異の目が並ぶ中、多摩川の練習場へ姿を見せた荒川は、報道陣に何枚も写真を取られ「最初で最後のホエールズのユニホーム姿」と題され、雑誌の表紙やグラビアを飾った。
大洋側は一応、荒川の希望する巨人にもトレードを打診したが、断られると、獲得に前向きなヤクルトと交渉。若手投手との交換を軸に話を進めていたが、「荒川の犠牲になるようで気の毒」という大洋・中部謙吉オーナーの温情で結局金銭トレードで話がまとまり、12月27日、荒川のヤクルト入りが決まった。
ドラフト制度を根幹から揺るがす掟破りに1カ月の出場停止処分を受けた荒川のデビューは、71年5月10日の巨人5回戦(神宮、巨人8-3ヤクルト)。三原脩監督は荒川を「6番・三塁」で起用した。
2回一死二塁のチャンスの初打席は、渡辺秀武投手の外角高めのつり球のカーブに手を出し空振り三振。以後空振り三振、遊ゴロ(打点1)、遊飛に終わり無安打。ようやく初安打を放ったのは出場7試合22打席目。5月18日の巨人6回戦(富山県営球場、ヤクルト5-4巨人)の5回、高橋一三投手から放った中前打だった。
早大時代通算3割3分6厘を残した打撃もプロでは厳しい結果の連続だった。デビューから12試合で33打数2安打0本塁打で2軍落ち。1軍復帰後、6本塁打を放ち大物の片りんを見せたが、ピークは72年の18本塁打、打率2割8分2厘。二本足で打ってみたり、左打者転向を目指してみたりとさまざまなチャレンジをしたが、暴漢に襲われた事件が選手生命を縮めることになった。
73年、左目の視力が下がる左視束管損傷が発覚。暴漢に殴られた時にできたとみられる脳と眼球を結ぶ機能の傷が視力を低下させていた。さまざま治療を施し、日常生活での支障はなくなったが、プロの速い打球や150キロ近い投球を目で追うには無理があった。特にナイターでは全くといっていいほどついていけなかった。
75年4月24日、ヤクルト監督になった父の荒川監督自らが神宮室内練習場でノックをして選手生命をかけたテストを行った。打球への反応が鈍く、グラブの差し出し方も危なっかしいものだった。
父は息子に非情な宣告をした。「選手として戦力にならない」。3日後の28日に引退発表。「何も恩返しができなかった」と荒川はただ泣くばかりだった。
引退後は実業家として活躍。が、本心はこうだ。「今なら巨人にこだわらない。あの頃は若かった。どこでもいいから野球選手としてやり直したい」。早大野球部史上屈指の強打者は、プロ生活5年通算195安打、34本塁打で終わった。不慮の事故が悔やまれてならない。
【2008/1/5 スポニチ】
巨人入りを希望し、クラウンライター(現西武)のドラフト1位指名を蹴って米国へと“留学”した江川卓投手より8年前、ジャイアンツ入りを熱望した東京六大学のスラッガーがいた。
69年、阪神に入団した田淵幸一捕手に次ぐ19本塁打を神宮でかっ飛ばした早大の荒川堯内野手。巨人・王貞治一塁手の一本足打法の生みの親、荒川博巨人打撃コーチの息子(養子)は、69年の第5回ドラフト会議で大洋に1位指名されたが、これを拒否。米大リーグのキャンプ地をめぐる武者修行の浪人生活を決意した。
大洋側も簡単に諦めるつもりはなく、年明けからの交渉再開を荒川側に伝えていた矢先の1月5日、事件は起きた。
午後9時15分ごろ、東京都中野区の自宅近くの路上で犬の散歩をしていた荒川は突然何者かに後方から襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られその場でダウン。「たった1発で頭がもうろうとしてしまった。最後は複数だと思うが蹴られたりもした。やり返す余裕はなかった」という荒川は、巨人専属トレーナーの吉田接骨師の診断を受け後頭部の打撲と、左手の亀裂骨折で全治2週間。年末から風邪気味で休んでいた日課の愛犬の散歩を再開させた直後の災難だった。
犯人はいったいだれなのか。荒川家には十分思い当たるふしがあった。大洋入団拒否が伝えられた後「野球ができないようなな体にしてやる」とか「覚えていろ」という脅迫電話が数回あり、身の危険を感じていた。警視庁野方署は「大洋入団を拒んだ荒川選手をうらんだ計画的犯行」とみて、捜査を始めた。
翌6日、お見舞いにと大洋の宮崎剛チーフスカウトが荒川邸を訪問。門前払いこそなかったものの、荒川は頭に包帯を巻きながら、大洋入りの意志のないことを改めて強調。暴漢に屈せず、自らの信念を通してアメリカ行きの考えを示した。
傷も完治しないまま、2月に渡米すると、父のつてを頼ってサンフランシコ・ジャイアンツ、ロサンゼルス・ドジャースなどのスプリングキャンプに参加。ここで腕を磨いたが、慣れない生活に体調を崩したり、不安定な精神状態に悩まされる日々が続いた。
その間に荒川を取り巻く環境は厳しさを増していった。恋焦がれた巨人、特に川上哲治監督は王のコピーのような一本足打法の荒川に興味を示さず、一浪しても次のドラフトで指名しない方針であることが明らかになり、逆に選手としての旬の時期を過ぎてしまうことから二浪はないと踏んだ各球団、とりわけスターを欲しがっていたパ・リーグは指名に積極的という流れが出来上がりつつあった。
それならばと荒川は第2志望であったヤクルトに照準を合わせた。一度大洋に入団し、しかるべき時期にヤクルトへ移るという三角トレードで希望をかにえるというもので、それに呼応するようにヤクルト・松園尚巳オーナーも獲得への意欲をみせ、大洋側も見返りに投手が獲得できるなら、と応じる構えをみせた。
当時はその年のドラフトが行われる1カ月前までに契約を済ませなければ、交渉権は無効になることから、荒川は9月に緊急帰国。リミットまであと2日の10月7日に大洋と契約をした。背番号は3。入団発表の席に本人不在という異様なプロ入りだった。
当初「大洋のユニホームを着ることはない」とホエールズの森茂雄代表は話していたが、みえみえの三角トレードに憤慨した鈴木龍二セ・リーグ会長は「練習に参加させるように」と大洋に要請。ホエールズナインの奇異の目が並ぶ中、多摩川の練習場へ姿を見せた荒川は、報道陣に何枚も写真を取られ「最初で最後のホエールズのユニホーム姿」と題され、雑誌の表紙やグラビアを飾った。
大洋側は一応、荒川の希望する巨人にもトレードを打診したが、断られると、獲得に前向きなヤクルトと交渉。若手投手との交換を軸に話を進めていたが、「荒川の犠牲になるようで気の毒」という大洋・中部謙吉オーナーの温情で結局金銭トレードで話がまとまり、12月27日、荒川のヤクルト入りが決まった。
ドラフト制度を根幹から揺るがす掟破りに1カ月の出場停止処分を受けた荒川のデビューは、71年5月10日の巨人5回戦(神宮、巨人8-3ヤクルト)。三原脩監督は荒川を「6番・三塁」で起用した。
2回一死二塁のチャンスの初打席は、渡辺秀武投手の外角高めのつり球のカーブに手を出し空振り三振。以後空振り三振、遊ゴロ(打点1)、遊飛に終わり無安打。ようやく初安打を放ったのは出場7試合22打席目。5月18日の巨人6回戦(富山県営球場、ヤクルト5-4巨人)の5回、高橋一三投手から放った中前打だった。
早大時代通算3割3分6厘を残した打撃もプロでは厳しい結果の連続だった。デビューから12試合で33打数2安打0本塁打で2軍落ち。1軍復帰後、6本塁打を放ち大物の片りんを見せたが、ピークは72年の18本塁打、打率2割8分2厘。二本足で打ってみたり、左打者転向を目指してみたりとさまざまなチャレンジをしたが、暴漢に襲われた事件が選手生命を縮めることになった。
73年、左目の視力が下がる左視束管損傷が発覚。暴漢に殴られた時にできたとみられる脳と眼球を結ぶ機能の傷が視力を低下させていた。さまざま治療を施し、日常生活での支障はなくなったが、プロの速い打球や150キロ近い投球を目で追うには無理があった。特にナイターでは全くといっていいほどついていけなかった。
75年4月24日、ヤクルト監督になった父の荒川監督自らが神宮室内練習場でノックをして選手生命をかけたテストを行った。打球への反応が鈍く、グラブの差し出し方も危なっかしいものだった。
父は息子に非情な宣告をした。「選手として戦力にならない」。3日後の28日に引退発表。「何も恩返しができなかった」と荒川はただ泣くばかりだった。
引退後は実業家として活躍。が、本心はこうだ。「今なら巨人にこだわらない。あの頃は若かった。どこでもいいから野球選手としてやり直したい」。早大野球部史上屈指の強打者は、プロ生活5年通算195安打、34本塁打で終わった。不慮の事故が悔やまれてならない。
【2008/1/5 スポニチ】
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