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【1月12日】1957年(昭32)
1941年型のシボレはその時、時速80キロ以上のスピードで国道246号線を走っていたという。午後10時38分ごろ、渋谷発二子玉川行きの東急玉川線の三宿駅付近で電車に追突し大破。乗っていた男性は胸を強く打ち、国立世田谷病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。
この男性こそ、55年(昭30)にトンボ(高橋ユニオンズ、57年大映に吸収、後のロッテ)を最後に引退した通算303勝投手の白系ロシア人、ヴィクトル・スタルヒン。享年40歳だった。
港区青山で友人のボーリング場開場パーティに出席、酒を飲んだスタルヒンはそのままハンドルを握り、東京・東中野で行われていた旧制旭川中学(現旭川東高)の同窓会に向かう途中だったといわれている。ロシア革命で祖国を追われ、日本に流れ着いて31年。なんとも悲しい結末だった。
事故直前のスタルヒンの行動はなんとも不思議だ。旭川中時代の友人らによると、同窓会の場所とは逆の方向へ車を走らせており、同乗していた同窓生を車から降ろし電車で行くように促している。また、酒を飲んではいたが、泥酔状態ではなかったというのがその後の友人らの証言で分かっている。運転を誤ったのか、何か別の理由があったのか、今となっては謎のままである。
父親が起こした刑事事件で早大進学を断念したスタルヒンは34年(昭9)、巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部に入り、全日本の一員としてベーブ・ルースらの全米選抜チームと対戦。1メートル91の長身から投げ下ろす快速球を武器に勝利を重ね始めたのは、沢村栄治投手が陸軍に召集され中国戦線へ出征している38年からだった。
38年(昭13)に33勝、39年には日本タイ記録の42勝(61年に西鉄・稲尾和久投手が記録)、40年38勝と3年間で119勝をマーク。腕をグルグル回して、テンポの早い投球をみせ、ファンも多かった一方で、戦時下の日本で外国人に対する目は厳しかった。スタルヒンは特高警察や憲兵隊にマークされ続け、40年途中からはスパイ嫌疑をかけられぬよう仕方なく「須田博」と日本名を名乗って野球を続けた。太平洋戦争が激しくなっても44年まで巨人に所属。亡命者のスタルヒンに帰る国はなく、職業野球が中止になると他の外国人とともに長野・軽井沢で抑留状態にされた。
終戦後、英語が苦手なはずのスタルヒンが、知り合いのつてで進駐軍に勤務。ロシア語の通訳、そして米陸軍の野球のコーチという肩書きで、吉田茂首相が月給3000円の時代に、月1500円の給料をもらっていた。戦前、酒もタバコもやらなかったまじめな助っ人は、この頃嗜好品をたしなむようになった。
復活したプロ野球にスタルヒンが復帰したのは46年。元巨人監督の藤本定義が率いる、戦前の大東京、ライオンの流れを汲むパシフィック(後に松竹、その後大洋=現横浜に吸収合併)だった。
連盟の取り決めは、戦前からの選手は最後に所属した球団に復帰するとあったが、スタルヒンは巨人復帰を拒んだ。その理由ははっきりしない点が多いが、スタルヒンは「巨人には世話になったことは確かだが、ある感情があり入りたくない」とだけ理由を述べている。戦前の巨人軍関係者の話を総合すると、スタルヒンは外国人ということから巨人内部で差別を受けることもあり、中にはいじめともとれる仕打ちをされたという。
巨人時代に“スタ公”と親しみを込めて呼び、何かと面倒を見てくれたのが藤本だった。恩師である藤本を慕って弱小球団を渡り歩いたスタルヒンは49年に27勝で最多勝のタイトルを獲得して健在ぶりをアピールしたが、加齢と酒、食生活の不摂生から力が落ちるのは早かった。
全盛時はは153キロの直球(テレビ局が映像を解析し出した数字)を武器に勝負していたが、変化球でかわす投球を余儀なくされるようになった。50年ごろから嫌っていた巨人復帰を狙っていたともいわれた。弱小球団では好投しても勝てないことも珍しくなく、黄金時代を迎えていたジャイアンツの打線の援護で勝ち星を増やしたいという思惑があったようだ。プロ野球再開直後は復帰を要請していた巨人も、チーム内が安定してくると力が落ちたスタルヒンを必要とせず、筆記は実現しなかった。。
“300勝”を達成したとされたのは、55年9月4日、西京極球場での大映(現ロッテ)17回戦。大映の監督になっていた恩師、藤本監督の前で8安打完投勝利を挙げた。
実はスタルヒンの300勝目は302勝目だった。39年に42勝を記録したスタルヒンだが、戦後なぜか40勝として伝わり、長らく訂正されずにきた。
ところが61年、稲尾がシーズン42勝をマークすると、スタルヒンの記録があらためてクローズアップされ、精査したところやはり42勝だったことが判明。62年3月、内村裕之コミッショナーがこれを正式に訂正、スタルヒンの勝ち星はあと2勝上積みされた。そのため、実際には55年7月28日、川崎球場での近鉄12回戦で完投勝利を収めた時が300勝目となった。
300勝=302勝を振り返り「本当に苦しかった。これからは楽に投げられる。節制をすれば50歳まで投げられる」と上機嫌だったが、この後1勝を積み上げただけで、同年自由契約に。年間勝率3割ちょうど、42勝しかできなかったトンボでさえ、スタルヒンの球威のなくなったボールでは戦力にならないと見切りをつけた。
野球を取り上げられたスタルヒンは「もう練習しなくていいから楽チンよ」と笑っていながら、いつもどこか寂しげだったという。慕っていた母親が亡くなったのも引退した55年だった。
「引退したらボールボーイでもいいから、野球場で仕事がしたい」。それが口癖だった。流暢な日本語をしゃべっていたが、野球中継の解説の話はなぜかなかった。代わりに大阪で週1回公開放送のラジオ番組に出演。時代劇「必殺仕事人」などで知られる藤田まことらと共演したこともあったが、希望していた野球関係の仕事はできず、空いた時間は2人目の妻が経営する美容院を手伝う“髪結いの亭主”だった。球界に恩返しする前に突然の事故死は悔やまれてならない。
巨人時代のスタルヒンの背番号は「17」。37年7月3日、洲崎球場でのの対イーグルス戦(消滅)でノーヒットノーランを記録しているが、その13年後の50年6月28日には「17」を継いだ、藤本英雄投手がプロ野球初の完全試合を達成。時代が下って平成に入ると94年5月18日には槙原寛巳投手が福岡ドームの広島戦で、巨人の投手としてはその藤本以来44年ぶり2人目の完全試合を成し遂げた。槙原の背番号も「17」。巨人の「17」は大記録の系譜でつながっている。
【2008/1/12 スポニチ】
1941年型のシボレはその時、時速80キロ以上のスピードで国道246号線を走っていたという。午後10時38分ごろ、渋谷発二子玉川行きの東急玉川線の三宿駅付近で電車に追突し大破。乗っていた男性は胸を強く打ち、国立世田谷病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。
この男性こそ、55年(昭30)にトンボ(高橋ユニオンズ、57年大映に吸収、後のロッテ)を最後に引退した通算303勝投手の白系ロシア人、ヴィクトル・スタルヒン。享年40歳だった。
港区青山で友人のボーリング場開場パーティに出席、酒を飲んだスタルヒンはそのままハンドルを握り、東京・東中野で行われていた旧制旭川中学(現旭川東高)の同窓会に向かう途中だったといわれている。ロシア革命で祖国を追われ、日本に流れ着いて31年。なんとも悲しい結末だった。
事故直前のスタルヒンの行動はなんとも不思議だ。旭川中時代の友人らによると、同窓会の場所とは逆の方向へ車を走らせており、同乗していた同窓生を車から降ろし電車で行くように促している。また、酒を飲んではいたが、泥酔状態ではなかったというのがその後の友人らの証言で分かっている。運転を誤ったのか、何か別の理由があったのか、今となっては謎のままである。
父親が起こした刑事事件で早大進学を断念したスタルヒンは34年(昭9)、巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部に入り、全日本の一員としてベーブ・ルースらの全米選抜チームと対戦。1メートル91の長身から投げ下ろす快速球を武器に勝利を重ね始めたのは、沢村栄治投手が陸軍に召集され中国戦線へ出征している38年からだった。
38年(昭13)に33勝、39年には日本タイ記録の42勝(61年に西鉄・稲尾和久投手が記録)、40年38勝と3年間で119勝をマーク。腕をグルグル回して、テンポの早い投球をみせ、ファンも多かった一方で、戦時下の日本で外国人に対する目は厳しかった。スタルヒンは特高警察や憲兵隊にマークされ続け、40年途中からはスパイ嫌疑をかけられぬよう仕方なく「須田博」と日本名を名乗って野球を続けた。太平洋戦争が激しくなっても44年まで巨人に所属。亡命者のスタルヒンに帰る国はなく、職業野球が中止になると他の外国人とともに長野・軽井沢で抑留状態にされた。
終戦後、英語が苦手なはずのスタルヒンが、知り合いのつてで進駐軍に勤務。ロシア語の通訳、そして米陸軍の野球のコーチという肩書きで、吉田茂首相が月給3000円の時代に、月1500円の給料をもらっていた。戦前、酒もタバコもやらなかったまじめな助っ人は、この頃嗜好品をたしなむようになった。
復活したプロ野球にスタルヒンが復帰したのは46年。元巨人監督の藤本定義が率いる、戦前の大東京、ライオンの流れを汲むパシフィック(後に松竹、その後大洋=現横浜に吸収合併)だった。
連盟の取り決めは、戦前からの選手は最後に所属した球団に復帰するとあったが、スタルヒンは巨人復帰を拒んだ。その理由ははっきりしない点が多いが、スタルヒンは「巨人には世話になったことは確かだが、ある感情があり入りたくない」とだけ理由を述べている。戦前の巨人軍関係者の話を総合すると、スタルヒンは外国人ということから巨人内部で差別を受けることもあり、中にはいじめともとれる仕打ちをされたという。
巨人時代に“スタ公”と親しみを込めて呼び、何かと面倒を見てくれたのが藤本だった。恩師である藤本を慕って弱小球団を渡り歩いたスタルヒンは49年に27勝で最多勝のタイトルを獲得して健在ぶりをアピールしたが、加齢と酒、食生活の不摂生から力が落ちるのは早かった。
全盛時はは153キロの直球(テレビ局が映像を解析し出した数字)を武器に勝負していたが、変化球でかわす投球を余儀なくされるようになった。50年ごろから嫌っていた巨人復帰を狙っていたともいわれた。弱小球団では好投しても勝てないことも珍しくなく、黄金時代を迎えていたジャイアンツの打線の援護で勝ち星を増やしたいという思惑があったようだ。プロ野球再開直後は復帰を要請していた巨人も、チーム内が安定してくると力が落ちたスタルヒンを必要とせず、筆記は実現しなかった。。
“300勝”を達成したとされたのは、55年9月4日、西京極球場での大映(現ロッテ)17回戦。大映の監督になっていた恩師、藤本監督の前で8安打完投勝利を挙げた。
実はスタルヒンの300勝目は302勝目だった。39年に42勝を記録したスタルヒンだが、戦後なぜか40勝として伝わり、長らく訂正されずにきた。
ところが61年、稲尾がシーズン42勝をマークすると、スタルヒンの記録があらためてクローズアップされ、精査したところやはり42勝だったことが判明。62年3月、内村裕之コミッショナーがこれを正式に訂正、スタルヒンの勝ち星はあと2勝上積みされた。そのため、実際には55年7月28日、川崎球場での近鉄12回戦で完投勝利を収めた時が300勝目となった。
300勝=302勝を振り返り「本当に苦しかった。これからは楽に投げられる。節制をすれば50歳まで投げられる」と上機嫌だったが、この後1勝を積み上げただけで、同年自由契約に。年間勝率3割ちょうど、42勝しかできなかったトンボでさえ、スタルヒンの球威のなくなったボールでは戦力にならないと見切りをつけた。
野球を取り上げられたスタルヒンは「もう練習しなくていいから楽チンよ」と笑っていながら、いつもどこか寂しげだったという。慕っていた母親が亡くなったのも引退した55年だった。
「引退したらボールボーイでもいいから、野球場で仕事がしたい」。それが口癖だった。流暢な日本語をしゃべっていたが、野球中継の解説の話はなぜかなかった。代わりに大阪で週1回公開放送のラジオ番組に出演。時代劇「必殺仕事人」などで知られる藤田まことらと共演したこともあったが、希望していた野球関係の仕事はできず、空いた時間は2人目の妻が経営する美容院を手伝う“髪結いの亭主”だった。球界に恩返しする前に突然の事故死は悔やまれてならない。
巨人時代のスタルヒンの背番号は「17」。37年7月3日、洲崎球場でのの対イーグルス戦(消滅)でノーヒットノーランを記録しているが、その13年後の50年6月28日には「17」を継いだ、藤本英雄投手がプロ野球初の完全試合を達成。時代が下って平成に入ると94年5月18日には槙原寛巳投手が福岡ドームの広島戦で、巨人の投手としてはその藤本以来44年ぶり2人目の完全試合を成し遂げた。槙原の背番号も「17」。巨人の「17」は大記録の系譜でつながっている。
【2008/1/12 スポニチ】
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