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【3月21日】1974年(昭49) 

 阪神の主力選手、藤田平内野手が和歌山市の神社で結婚式を挙げた。その頃チームはオープン戦の真っ只中。藤田が生涯の伴侶をめとった日に、タイガースは四国鳴門で太平洋クラブ(現西武)との試合が組まれていた。開幕まで3週間を切り、主力メンバーで打線を組み始めた中で、阪神はレギュラー藤田の代役に高卒ルーキーを使った。

 「8番・遊撃」に入ったのは、掛布雅之内野手。千葉・習志野高出身の73年ドラフト6位。守備、走塁は「並み以下」という厳しい評価を受けながら、左打者を物色していた金田正泰監督がキャンプ中にそのシュアな打撃に目を付け、3月中旬に1軍に上げたばかりの18歳だった。

 太平洋の先発はエース東尾修投手。掛布はその速球に負けなかった。4打席で二塁打1本を含む2安打。打点2のおまけまでついた。当日は新聞休刊日。オープン戦での若虎の活躍は23日に結果だけが、新聞の片隅に出るという寂しいものだったが、1軍首脳陣はその非凡なバッティングに熱視線を送った。

 「大変なバッターや。手首の使い方は一流打者にも負けん。とんだ掘り出し物や」と大喜びしたのは、岡本伊三美ヘッドコーチ。金田監督は岡本ヘッドに相談した。「次は本職をやらせてみるか」。

 24日、今度は日生球場での近鉄戦。7番、本職での三塁でスタメン出場した掛布は21日以上の活躍をみせた。4打数4安打で打点1。初回、二死満塁で72年に19勝を挙げた清俊彦投手から左前適時打を放つと、その後もシングルヒット3本。2度のチャンスメークで2得点を挙げた。この日阪神は清、井本隆男投手に10安打を浴びせたが、マルチヒットはルーキーの背番号31だけ。彗星のごとく現れた高校出の新人は、これでオープン戦打率6割6分7厘となった。

 さすがに新聞各紙が騒ぎ出した。無名であることを象徴するかのようにどれも「かけふ」と読み仮名がふられていた。掛布と同期入団になるドラフト1位指名の中大・佐野好仙に球団は三塁のレギュラー候補として期待をかけていたが、金田監督は月給7万円の球団一薄給の掛布を抜擢。開幕1軍メンバーに名を連ねた。

 72年(昭47)夏、第54回全国高校野球選手権に2年生ながら千葉・習志野の4番・遊撃手として出場。1打席目で左前適時打を放つも4打数1安打でチームは東洋大姫路(兵庫)に3-5で敗れ初戦敗退。掛布の甲子園ははたった2時間弱で終わっている。

 卒業を控えた掛布は進学、就職ともに真剣に向き合うことはできず、プロ入りを夢見ていた。ドラフト6位指名で阪神に入団しているが、実際は高校野球の監督経験のある父親がつてを頼って阪神のテストを受けられるようにし、合格してのプロ入りだった。当初、千葉に住んでいたことから関東のチームにと、ヤクルトにもアプローチしたがテストは受けられなかった。

 契約金500万円、年俸は両リーグ最低の84万円。「虎風荘」の寮費などを引かれると、月給は5万円程度しか残らないという生活をしていた選手は、ほとんど下積み経験なく、1軍選手として活躍。3年目の76年には完全にレギュラーとなり、打率3割2分5厘1毛は巨人・王貞治一塁手より1毛上のセ・リーグ打撃成績5位。本塁打27打点83で堂々ベストナインのタイトルを獲得した。

 甲子園で打席に入ると起こった「カケフ、カケフ」コールは、いつの間にか広島・山本浩二外野手の「コージ」コールに続いて、球場名物となり、球団の顔だった田淵幸一捕手の人気を上回るほどになっていた。

 「若虎」の代名詞がついた掛布が主砲・田淵の欠場で、4番に初めて入ったのは77年7月18日のヤクルト19回戦(神宮)。5回に左腕・梶間健一投手のカーブを体を開かず、右中間へ運び勝ち越しの10号ソロを放った。初の4番での本塁打は、田淵に代わる新しいミスタータイガースの誕生を告げる一発だった。

【2008/3/21 スポニチ】
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