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【3月9日】1989年(平1)

18打席で9三振。3打席連続は2回を数えた“大型扇風機”が突如として変身した。あのランディ・バース一塁手の後釜として阪神が獲得した、セシル・フィルダー一塁手は西京極球場でのオリックスとのオープン戦の第2打席に伊藤敦規投手から左翼へ来日初本塁打を放った。

 一塁ベースを回り、打球の落下点を確認すると、小さくガッツポーズ。メジャー31本塁打のプライドもどこへやら「最高の気分さ。大リーグで初めてホームランを打ったときのように嬉しい」と、満面の笑みでホームを踏んだ。

 リラックスして入った打席だった。第1打席で内角の速球を詰まりながら中前打。10打席ぶり来日2本目ヒットを記録した。「試合前、友人のブーマー(一塁手、オリックス)にいいヒントをもらったんだ。構えた時、左足のつま先が開きすぎているって。だから体の開きが早いんだよってね」。

 原因はあった。来日以来、日本の投手は執拗な内角攻めをし、それを嫌ったフィルダーは徐々にオープンスタンス気味になっていた。同時に重心が後ろ足に残らず、突っ込んだ形になったことが拍車をかけ、フォームがバラバラになっていた。

 アドバイスだけでなく、バットまでブーマーからもらった。フィルダーは910グラムの比較的軽いバットを使用していたが、ブーマーからプレゼントされたそれは960グラム。「重いほうがバットのヘッドを残して打てる。これで打球は飛ぶよ」とブーマ。「バースの印象が強いチームでやっていかなければならないアイツは相当悩み苦しんでいた。友達としてできることをしたまで。これで少しは気持ちが楽になるだろう」と、自らはノーヒットだった心優しい三冠王はフィルダーの活躍を自分のことのように喜んだ。

 一度、コツをつかめばそこは元メジャーリーガー。3、4打席ともいずれも左前打。体重を残し、内角低めの真っ直ぐをさばいたバッティングに、連日表情が晴れなかった村山実監督も上機嫌。「これで吹っ切れてくれるやろ。まあ、シーズン前の苦労や。ええ経験や。今日は(チームで)15安打か。F(フィルダー)効果やな」と口調は滑らかだった。

 翌10日もオリックス戦。まぐれか、それとも開眼か。真価を問われる第1打席でフィルダーは今井雄太郎投手のスライダーを拾い、左前先制適時打。2打席目はストレートを完璧にとらえ、左中間を深々と破る二塁打。これで前日から6打数6安打。その後は2連続死球で8打席連続出塁。「急にボール球に手を出さなくなった。何かをつかんだね」と偵察に来ていた広島のスコアラーは赤ペンを取り出し、フィルダーに関する細かいリポートを記した。

 そして迎えた4月8日の開幕戦。相手はフィルダーを「要警戒」とした広島だった。広島市民球場での1回戦、阪神は7回まで北別府学投手の前に散発4安打と封じ込められ、開幕戦10連敗目前。8回、その北別府を攻略し2点を返し、無死一、二塁で3番・一塁のフィルダーが打席に入った。カープのマウンドは長冨浩志投手に代わっていた。

 初球ファウルからの2球目はインコース低めのストレート。オープン戦で空振りしまくったコースもいまや得意中の得意のボールになった。バット一閃。打球は左翼スタンド上段へ一直線。球場中が一瞬静まり返るほどの超特大アーチは見事逆転アーチとなった。

 後は中西清起投手が2回を抑え、タイガースはフィルダーの値千金弾で実に79年以来の開幕戦白星を飾った。

 シーズンで打率3割2厘(9位)、本塁打38(3位)、打点81(3位)の好成績を残したが、小指を骨折して9月に帰国。チームは5位と低迷、全本塁打半分近くの16本を放った大洋に勝ち越したが、4本しか打たなかった巨人には8勝18敗と大きく負け越した。

 球団はフィルダーの力は認めながらも勝利に貢献できる中軸打者を求め、中村勝広新監督就任とともに新外国人を調査していたが、その動きをフィルダーが察知。あてつけのようにデトロイト・タイガースと契約し、1年で日本球界を去った。

 メジャーに復帰しア・リーグで2年連続本塁打王、3年連続打点王と活躍は日本でも大きく報道された。一時、ギャンブルで財産をなくし、失踪したとも伝えられたが、07年には独立リーグで指導者に。息子のプリンス・フィルダーもメジャーで本塁打王となった。


【2008/3/9 スポニチ】
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