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【6月13日】2001年(平13) 

【近鉄15-8ダイエー】うれし泣き、はこの場合当てはまらなかった。涙は胸の奥にしまいこみ、重さ140グラム超のウイニングボールの感触をかみしめながらこの日を終えたかった。

 脳腫瘍という大病から見事マウンドにカムバックした、近鉄・盛田幸妃投手は福岡ドームでのダイエー12回戦に4番手として登板。1回3分の2を19球、無安打無失点に抑えシーズン1勝目、実に1082日ぶりの通算46勝目を挙げた。

 感動的なシーンにヒーローインタビューを担当するアナウンサーの声も震え、やや涙声になった。「野球ができるようになる確率は3割あるかないか」と主治医に言われた投手の奇跡の復活にスタンドも感涙を流した。が、当の盛田はいたって冷静だった。「本当に一生懸命やってきてよかった。(白星は)3年ぶり?だいぶ昔のことなんで忘れました。これからも野球をやりたい。今はそれだけです」。これ以上ない地獄を見た男は、久々の1勝に大喜びするより、野球ができるという現実の方が大事だったのである。

 グラウンドでの戦いをしのぐ壮絶な闘病生活。本当の修羅場を抜けてきた背番号21は、同点の場面で迎えた一死一、三塁にも動じることはなかった。全盛時の150キロより10キロ以上遅くなったストレート。インコースいっぱいを突き、井口忠仁二塁手を三振に仕留めると、続く小久保裕紀三塁手を得意のシュートで詰まらせ遊ゴロ。横浜時代、“大魔神”・佐々木主浩投手と組んだダブルストッパーとしての経験も生かし、ダイエーに試合の流れを渡さなかった。

 6回を3者凡退で締めると、呼応して“いてまえ打線”が本領発揮した。7回、中村紀洋三塁手の通算200号となる23号ソロ本塁打に始まり、タフィー・ローズ左翼手のこの日2本目となる24号2点弾まで計7点を奪取。盛田の気迫の投球に応えた、野手全員による白星のプレゼントだった。

 この盛田の1勝以後、近鉄は10試合7勝3敗の戦績を残し、6月25日にはダイエーに代わり、首位に躍り出た。前年最下位、防御率が5点台に近いチームは「いつか落ちる」といわれながらも、ダイエーとのデッドヒートを制し、12年ぶりにパ・リーグを制覇。21世紀最初のリーグ優勝チームとなった。

 98年、中根仁外野手とのトレードで近鉄に移籍。古巣ベイスターズが快進撃をみせる中で、盛田は9月10日に実に11時間40分に及ぶ大手術を行った。退院は10月20日。昔の仲間が日本シリーズで西武との熱戦を繰り広げている真っ只中だった。

 手術より厳しかったリハビリ。右半身がまひして動かない。ボールの投げられない右手を壁にぶつけ、夫人には「この右腕を切ってくれ」と真顔で訴えたこともあった。

 99年の公式戦最終戦で復活登板を果たしたが、2000年は3試合登板で防御率は18・00。戦力外通告を受けたが、大減俸をのみ現役続行。全盛時1億ちかくあった年俸は1600万円まで下がった。「練習しても同じ。ダメなやつはいくらやってもダメ」とかつて豪語していた男は、オフから休みなしで練習を続けた。「これが最後になってもいいように」と。

 01年のオールスター。新設された中継ぎ部門で34万3080票を集め、1位で選出された。7月22日の第2戦、懐かしの横浜スタジアム。7回、登板の機会が与えられた。2万6291人の観衆からの声援、拍手に、復帰後初白星にも涙を見せなかった男がはじめて「ぐっとくるものがあった」。打席で迎えてくれたのは、横浜・石井琢朗内野手。またとない最高の場面になった。

 石井には安打を打たれたが、24日の第3戦は故郷・北海道で巨人・清原和博内野手と対戦。盛田自身が望んだ勝負だった。「盛田からは勇気をもらった。アイツの苦しみから比べれば、自分の悩みはちっぽけや」と清原。不振とけがに苦しんで清原は、盛田の闘病生活のドキュメントをテレビで見て以来、励まされてきた。

 6球勝負は空振り三振。盛田は真っ直ぐ、シュート、カーブ、どれも全力投球した。清原もフルスイングした。清々しい一騎打ちを終えた盛田が復帰後、初めて満面の笑みがこぼれた瞬間だった。

【2008/6/13 スポニチ】
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