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【6月14日】1988年(昭63) 

 【巨人5-0ヤクルト】いきなりオイシイ場面で初打席が回ってきた。神宮のヤクルト-巨人10回戦、1回一死一、三塁。前日の13日、左手親指を骨折したウォーレン・クロマティ外野手に代わって1軍登録された“第3の男”、台湾出身の巨人・呂明賜(ルー・ミンスー)外野手は、こちらも呂同様登録されたばかりの新外国人、ロバート・ギブソン投手と対戦。1軍公式戦初打席に立った。

 初球、スライダーが高く外れてボール。「初球はどんな球でも見逃そうと思った」という呂。考えなくてもいいほど、大きく外れたことで気が楽になった。

 2球目。初球と同じスライダー。ボールになった分、ギブソンの腕は振れず、内角へ甘くきた。脇をたたんでコンパクトにさばいた打球は、美しい放物線を描いて夕焼け空に舞い上がった。文句なし、左翼席上段に飛び込む1号3点弾。背番号97の鮮烈なデビューに神宮の杜は沸きに沸いた。

 故郷の英雄、王貞治監督が驚嘆する。「プレッシャーの中で力を出せる選手だね。内心は1発狙っていたはずだよ。何か持っている」。王監督のいう何かとは、ファームでも初打席で場外ホームランを打ったことを指していた。緊張する場面できっちり結果を出したことに、王監督は勝負師ならではのにおいをかぎとっていた。

 ヤクルト戦の後も呂は本塁打を量産。変化球に比較的弱いという情報もあり、各球団のバッテリーはカーブや落ちる球で打ち取りにいったが、いずれも痛打を浴びる始末。出場10試合で7本塁打。前年の87年、ヤクルトで“赤鬼旋風”を巻き起こした、ボブ・ホーナー内野手同様、2年続けて外国からの“黒船”にプロ野球界は震え上がった。

 台湾プロ球界の5年間311試合で112本塁打。2・77試合に1本塁打の割合は、王の3・26試合に1本を超える数字。まさに“アジアの大砲”にふさわしいものだった。

 その台湾ナショナルチームの4番に巨人が食指を伸ばしたのは、路線変更のためだった。当初巨人は、クロマティと大リーグの6年連続2ケタ投手ビル・ガリクソン投手の2人に加え、メジャーで実績のある大物投手の獲得に心血を注いでいたが、条件が合わず撤退。その時、呂が日本で、しかも台湾の星、王監督が指揮を執る巨人でプレーしたがっているという情報を得た。

 交渉のテーブルにつくと、障害があるとされた台湾側の引き留めや兵役問題は簡単にクリア。トントン拍子で契約にいたった。

 問題は1軍に入れるかどうか。当時1軍登録できる外国人は2人まで。実績から行けば、呂はクロウかガリーにアクシデントでもない限り、1軍の舞台には立てない可能性が強かった。それでも入団した“第3の男”に出た金額は契約金5000万円、年俸840万円程度だった。

 ファームで三冠王、1軍デビュー後も打ちまくった呂はオールスターにも広島・達川光男捕手がけがで辞退したことから、急きょ出場したが、旋風はこの球宴を境にピタリとやんだ。

 球宴でパの好投手に翻弄され7打数無安打に抑えられた呂は、後半戦失速。インコースの直球と外角の変化球に手を焼き、打撃を崩した。結局1年目は2割5分5厘、16本塁打。クロマティがいない間、よく穴を埋めたといえるが、日本のプロ野球と台湾との実力の格差をまざまざと見せつけた格好となった。

 呂は4年間巨人に在籍。ファームでは申し分ない成績でも、1軍に呼ばれる時はいつも緊急要員で、落ち着いてプレーできなかったのはもったいなかった。出場試合数も減り、89年の2本塁打を最後に残りの2年は1軍でアーチなし。台湾に帰国し00年までプレー。打撃コーチとして台湾代表を支え続けている。

【2008/6/14 スポニチ】
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