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【11月6日】2006年(平18) 

「巨人という競技をやっているのではなく、オレは野球選手。野球が思い切りできない環境なら変えた方がいい」。

 春先から移籍を考えていた巨人・仁志敏久内野手の横浜へのトレードが発表された。相手は小田嶋正邦内野手。11年で1294安打を記録した仁志と5年間で30安打の小田嶋。年俸格差(推定)は実に1億4800万円。普通ならあり得ないトレードだが、横浜が多少の金銭をプラスすることで合意した。

 攻撃的な1番打者としてジャイアンツの顔でもあった男がシーズンイン当初からなぜ移籍を考えたのか。

 06年、3年連続V逸の巨人は堀内恒夫監督に代わって、原辰徳監督を復帰させた。新監督は若手の起用と同時に他球団の選手を積極的に補強し、チーム内での競争心をあおった。仁志が守る二塁には、ロッテからかつての盗塁王で守備の達人、小坂誠内野手を獲得。ルーキーの脇谷亮太内野手らも加えて競わせた。

 結果、原監督は開幕戦で小坂を起用した。02、03年の原前政権時代も2番に回され、本来のバッティングを崩した仁志。本人は口には出さなかったが、周囲は「本当に2人は相性が悪い」とささやくほどだった。7月に月に2度のファーム行きを命じられた時、今後進むべき道を真剣に模索し始めた。

 「自分の1年後、5年後、10年後はどうなっていたいのか」と自問自答した時、近々の目標として「来年も野球選手をやっていたい」ということだった。巨人に恋焦がれて、五輪出場のチャンスも蹴って長嶋茂雄監督の胸に飛び込んだが「もうそういう時代じゃない」。巨人の仁志である前に野球選手の仁志でありたかった。

 それから巨人の清武英利球団代表にトレードを直訴した。30代半ば、高額年俸がネックとなりなかにかまとまらない中、一時は引退もちらついた。清武代表と意見の相違から言い合いになることもあったが、代表から携帯電話に「話が横浜とまとまりそうだ」と連絡をもらった時、嬉しさと同時にあんなに誇りだった巨人の選手でなくなることへの寂しさに涙が出てきた。

 11年間付けてきた背番号8から日本生命時代の7に変わった仁志はキャンプから積極的にチームに溶け込んだ。大矢明彦監督も仁志を1番で起用。巨人最終年、打率1割8分5厘、1本塁打、7打点とプロ入り後最低だったのは雲泥の差で3割をキープ。前半戦だけで球団記録タイの先頭打者本塁打5本を放ち、チームは優勝戦線に食い込んだ。

 後半戦は息切れして、打率2割7分、10本塁打、45打点に終わったが、1人の移籍選手がチームにもたらした影響は大きかった。最下位候補ダントツだったチームがクライマックスシリーズ進出まであと一歩のところまで頑張れたのも、残した数字以上に仁志の存在があったからだった。

 07年4月1日、開幕2戦目の巨人2回戦。仁志は貴重な2点目となるセンターオーバーの二塁打を放った。移籍後の初打点。ベース上で軽くガッツポーズをした後、心なしか目が潤んでいるように見えた。

 ヒーローインタビュー。“昨日の敵”に向かって「トシヒサコール」が一塁側、右翼スタンドの横浜ファンから飛び交った。「この大歓声がたまらない」と言った背番号7は、横浜の“野球選手”として思い切ってプレーをしているこの瞬間を待ち望んでいた。同時に巨人の仁志から完全に決別した日でもあった。

 09年のシーズンは長年横浜を牽引してきた石井琢朗内野手が抜け、38歳になる仁志が内野手として最年長となった。巨人にあって横浜にない「唯一にして最大の違いは勝利への意識のどん欲さ」と、移籍1年目のキャンプで指摘した。ただ絶望はしていない。「若い選手が多いチーム。彼らには完成されていい分聞く耳を持っている。砂が水を吸収するように…。だから楽しみで期待の方が大きい」。

 惨たんたる成績で最下位を独走した08年のベイスターズ。かつて大洋時代の主力選手に見切りをつけ、チームを刷新した時に状況は似ている。あの“痛み”があったからこそ、98年の優勝につながった。石井だけでなく、鈴木尚典外野手、川村丈夫投手といった98年優勝メンバーが去った今、横浜は変革の時を迎えた。

【2008/11/6 スポニチ】
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