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【12月31日】1949年(昭24) 

 大阪タイガース(現阪神)から若林忠志投手兼監督、別当薫外野手、呉昌征外野手、大館勲夫内野手、本堂保次内野手、土井垣武捕手の主力6人が50年のシーズンからプロ野球に参入する毎日(現ロッテ)に大量移籍するとの発表があったのは、暮れも押し迫った大みそかだった。しかもトレードや自由契約での移籍ではない。6選手の意志で勝手にタイガースを出て行ってしまったのだ。

 この年、毎日新聞はプロ野球に参入するために日本野球連盟に加盟申請をした。新規参入が認められるかどうかは微妙な情勢だったが、毎日側はそれと平行して選手獲得に奔走。都市対抗野球の主催という利点を生かし、大分の強豪・別府星野組を中心にノンプロの選手を集めていたが、やはりプロ球団になる以上、“職業野球”経験者をチームの核として迎え入れる必要があった。

 毎日がまずターゲットにしたのは、タイガースの若林監督だった。終戦から2年後の47年に“ダイナマイト打線”の爆発と若林自身がプレーイングマネジャーとして26勝を挙げるなど、勝率8割6分1厘という圧倒的な強さで優勝。しかし、若林監督は球団に対していくら勝っても良くならない選手の待遇や選手同士の内紛に嫌気がさし、2年後の49年のシーズン中から退団のタイミングを見計らっていた。ハワイ出身の日系二世である若林はフロントがしっかりした、現場と一体になってチームを強くしようという大リーグ流の球団作りに参加したいという理想に燃えていた。

 シーズン中、現役の監督であり、主戦投手でもある若林を大っぴらに勧誘するわけにはいかない。毎日は常に若林が関心を引くような新球団設立の情報を意図的に流し、興味が向くように“エサ”をまいた。

 ほどなく若林の方から話に乗ってきた。阪神はこの年、チーム内のゴタゴタから借金4の6位(8球団)に沈んだことで、監督解任の話が持ち上がってもいた。若林は毎日首脳と接触して言った。「毎日が今度新しいチームで理想のチームを作ると聞いた。加えてもらえないか」。

 そうなると話は早い。毎日側は湯浅禎夫“総”監督は決めたものの、監督の座は空けて待っていた。若林が阪神を出た時にすんなり入れるようにしていたのだ。

 若林が阪神を出れば“本命”のスラッガーも獲得できるという構図だった。前年48年に阪神入りした別当薫中堅手は3番を打ち、4番・藤村富美男三塁手とともにダイナマイト打線の柱だったが、豪放磊らいな藤村に対し、紳士的だが気の強い別当は相性がすこぶる悪かった。

 一方で法大出身の若林と慶大出身の別当は同じ東京六大学組として話も相通ずるものがあり、若林が去るのならついて行くという気持ちになっていた。湯浅総監督は後にこう回想している。「40歳を過ぎた若林の投手としての寿命はそう長くないが、別当は今が旬の強打者。極端に言えば私としては別当さえ獲得できれば、それでよかった」。将を得んとすれば馬を射よとはまさにこのことであった。続いて若林を慕う呉、若林と同じハワイ出身の日系人だった大館は自然の成り行きで行動を共にした。

 移籍ルートはもう1つあった。土井垣の場合は、一向に良くならない待遇面に見切りをつけての毎日行きだった。新人選手に対して球団が宅地と多額の年俸を用意したのに対し、土井垣が頼み込んだ借入金を球団は断った。功労者よりプロで実績のない選手を優遇した態度に反発した土井垣は、サンフランシスコ・シールズが親善試合のため来日中に自らを毎日に売り込んだのだった。

 すぐにプロでレギュラーとして活躍できる捕手を探していた毎日は渡りに船とばかり、土井垣が必要とする額を契約金の一部として用意。「彼とのサインプレーのおかげで僕はいくつも盗塁が刺せた」という土井垣の進言で食指を伸ばしたのが名手の本堂だった。

 毎日がプロ野球参入の際、巨人に「阪神-巨人戦の試合数が少なくなって互いのためにならない」と収入減を指摘されたことで、一転して反対に回ったタイガース。結果としてセパ2リーグ分裂を招いた。

 大量移籍は、毎日がその復讐として引き抜きをしたと言われたが、間接的に関与はあっても積極的な売り込みはむしろ選手からだったようだ。

 阪神は年明けに抗議文を発表するなど、泥沼の様相を呈した騒動だが、戦力充実の毎日は参入1年目でパ・リーグ制覇だけでなく、日本一も勝ち取った。一方の阪神は4位に終わり明暗くっきりの2リーグ分裂1年目となった。

 年末から大みそかにかけてのドタバタ劇を経て、やりたい放題だった選手の自由移籍などを禁じた統一契約書ができるのはこの2年後のことだった。

【2008/12/31 スポニチ】
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