【MLB】野茂引退「悔い残る」苦渋の決断

 トルネード投法で日本人メジャー選手のパイオニアとなった野茂英雄投手(39)が現役引退を決めた。野茂は今季ロイヤルズでメジャーに3年ぶりに復帰したが結果を出せずに自由契約となり、その後も獲得に乗り出す球団は無かった。「プロ野球選手としてのパフォーマンスは出せないと思う」として引退を決断した。日米通算201勝(155敗)、米オールスター戦先発、メジャー両リーグでのノーヒットノーランなど数々の記録を残したトルネードは、多くの人々の心に鮮烈な記憶を残した。

 野茂がついに引退を決めた。現在、米ロサンゼルスにいる野茂は、最後まで現役復帰の道をさぐっていたが、満足行くボールが投げられないと判断した時点で、決断をした。

 「リタイヤすることにした。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」と話した。06年にホワイトソックスの3Aのキャンプ中にひじを痛めた。夏に手術し、約1年半をリハビリに費やした。昨年オフには、ベネズエラのウインターリーグにも参加。「もう1度、どうしてもメジャーのマウンドに戻りたい」と気持ちを話した。

 野球が本当に好きな選手だった。今季招待選手としてロイヤルズのキャンプに挑戦し、不死鳥のように3年ぶりにメジャー復帰した。だが、痛めた右ひじは、完治していなかった。ストレートは140キロを超えることはなく、フォークボールにキレは戻らなかった。慣れない中継ぎで打たれ、4月20日に戦力外通告を受けた。最後にKOされた日、ロッカールームで目を赤くしていた。何か期するものがあったのかもしれない。

 野茂の魅力は、大きな体を背番号が見えるほどひねり、ふりほどく力を利用しながら真っ向から投げ降ろすトルネード投法だ。「自分で小さいころから投げていて身につけました」という。たぐいまれな柔らかい筋肉が独自のフォームを支える秘密だった。観察力にすぐれ、頭も良かった。

 1990年に近鉄入りすると、1年目から最優秀選手などを獲得。そしてメジャーへの挑戦。95年にドジャースに入団。速球とフォークボールを武器にオールスター戦先発など1年目から大活躍し、前年のストライキの影響で関心が失われていた大リーグを救った。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンも生まれ、新人王に選ばれた。「ノモは日本の最高の輸出品」(当時のクリントン大統領)ともいわれた。奪三振王。ナショナル、アメリカン両リーグでノーヒットノーランを記録する史上4人目の快挙も達成した。ドジャースで地区優勝もした。快挙はそのまま伝説になる。黙々と投げ続ける姿、その生き方が心に残る選手だった。

 野茂は「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」と言った。野茂らしい正直な言葉だ。

 将来的にはアマチュアの指導者も含め、野球に携わっていくことは確実だ。「いつまでも投げていたい。草野球の投手でもいいんです」と言ったことがある。自身がオーナーのNOMOベースボールクラブもある。開拓者は、また夢を見つけて、追い続けることになるのだろう。

【2008/7/18 Nikkansports】


【MLB】野茂投手「現役引退」を決意 米進出の先駆者も「パフォーマンス出せない」

 日本選手の米大リーグ進出の先駆けとなり、日本と大リーグで通算201勝(155敗)を挙げた野茂英雄投手(39)が現役引退の決意を固めたことが17日、分かった。ことし4月にロイヤルズを自由契約となった後も獲得に乗り出す球団はなく「リタイヤすることにした。お客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思う」と語った。

 野茂は、ドラフト1位で1990年に近鉄入り。95年にドジャースに入団、64、65年の村上雅則投手(当時ジャイアンツ)に次いで日本選手として2人目の大リーガーとなった。速球とフォークボールを武器にオールスター戦先発など1年目から大活躍し、新人王に選ばれた。また、ナショナル、アメリカン両リーグで無安打無得点試合を記録する史上4人目の快挙も達成した。(ニューヨーク 共同)

トルネードが起こした日本球界の国際化

 それまでは夢の世界だったメジャーのグラウンドで野茂が活躍する姿に、ファン以上に心を躍らされたのは日本球界の選手だった。野茂が開いた道をイチロー、松井秀、松坂ら、各球団のスーパースターがたどることになった。

 球界関係者は「野茂のおかげで、日本球界が国際化に目覚めた」とも言う。近鉄に在籍していた94年オフの契約更改の席で、大リーグへの移籍を主張。その強硬姿勢に根負けした近鉄は「任意引退選手」として、契約を断念した。結局野茂は代理人の団野村氏の助けを借りて、米国で野球をしたいという場合まで選手を縛ることはできない-という任意引退の盲点をつき、強引にドジャース入りを決めた。

 契約社会での認識の甘さを思い知らされた日本球界はその後、選手の保有権などが真剣に議論されるようになった。98年には「日米間選手契約に関する協定」を調印。FA権を持たない日本選手が大リーグ移籍を希望し、それを球団が認めた場合、移籍が可能になる「ポスティングシステム」が導入された。

 多くの日本選手に大リーグ挑戦の夢を実現させ、日米球界に“風穴”をあけた「トルネード」が残した功績は大きい。(西井禎一)

 ■野茂英雄(のも・ひでお)大阪・成城工高、新日鉄堺を経て90年にドラフト1位で近鉄入り。独特のフォームは「トルネード(竜巻)投法」と呼ばれ、1年目に18勝でMVP、新人王、沢村賞。95年ドジャースに入団。日本人2人目の大リーガーとなり、オールスター戦に先発、新人王に輝いた。96、01年に無安打無得点試合を達成し、05年に日米通算200勝。日本で通算78勝46敗、大リーグでは計7球団に所属し通算123勝109敗。188センチ、100キロ。右投げ右打ち。大阪府出身。39歳。

【2008/7/17 MSN産経ニュース】


【MLB】不屈のドクターK 野茂引退 渡り歩いた7球団 “直球とフォーク”貫く

 【ニューヨーク=共同】大きく腰をひねる独特のトルネード投法で一世を風靡(ふうび)した野茂英雄投手(39)が17日、現役引退を決意した。

 1990年に近鉄に入団。94年オフに近鉄との契約がこじれ、95年に米大リーグ、ドジャースに移籍。1年目から13勝6敗の成績を残し、2005年までのメジャー11年間で通算123勝を挙げた。

 今年は前日本ハム監督のヒルマン氏が指揮を執るロイヤルズでメジャー昇格。05年7月以来の登板を果たしたが、3試合で計4回1/3を投げ、10安打9失点3奪三振で防御率は18・69だった。

 表情を変えることなく、マウンドで持てる力をすべて出し切る。野茂はこのスタイルを最後まで貫き通した。

 「トルネード投法」で鮮烈なメジャーデビューを飾ったのは1995年。目いっぱい体をひねり、直球とフォークボールを投げ込む。この2つの球種で打者を翻弄(ほんろう)し、三振の山を築き、旋風を巻き起こした。選手会のストライキでファン離れが起きた中、野茂は大リーグの「救世主」と言われた。

 移籍を何度も繰り返し、その都度、はい上がってきた。一昨年に右ひじを手術。昨年はベネズエラのウインターリーグにも参加した。

 今年2月下旬。米アリゾナ州のロイヤルズのキャンプ地に、日本人の姿が多く目につくようになった。異国の地で挑戦を続ける野茂の姿を一目見ようと、駆けつけたファンだ。ある年配の男性は「年も立場も違うけど、頑張っている姿に励まされる」と語った。

 4月5日にメジャーに昇格。だが、8月で40歳となる野茂はかつての球威を取り戻すことはなかった。同18日のアスレチックス戦。3ランを浴びた野茂はクラブハウスのいすに座り、バスタオルを頭からかぶってうなだれた。その後、ヒルマン監督(前日本ハム監督)から戦力外通告された。

 華々しい実績を残した。しかし、何よりもメジャー移籍のパイオニアとして、その名が残る。野茂が海を渡らなかったら、これほど多くの日本選手が大リーグに挑戦できたとは到底思えない。 (共同)

◆野茂の一問一答
 -決断に至った経緯は。

 中途半端にしていてもしょうがないし、けじめをつけないといけない。ファンにも報告しないといけない。どこも取ってくれる球団はないと思う。

 -未練はないか。

 自分の中ではやりたいが、プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。

 -4月に大リーグ復帰を果たしある程度納得したのか。

 そんなことは全然ない。引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った。 (共同)

【野茂英雄(のも・ひでお)】 大阪・成城工高、新日鉄堺を経て90年にドラフト1位で近鉄入り。1年目に18勝でMVP、新人王、沢村賞。95年ドジャースに入団。日本人2人目の大リーガーとなり、オールスター戦に先発、新人王に輝いた。96、01年に無安打無得点試合を達成し、05年に日米通算200勝。日本で通算78勝46敗、大リーグでは計7球団に所属し通算123勝109敗。188センチ、100キロ。右投げ右打ち。大阪府出身。39歳。 (共同)

【2008/7/18 中日スポーツ】


【MLB】先駆者・野茂の引退に後輩が謝辞

 日本選手の米大リーグ進出のパイオニアとなった野茂英雄投手の引退表明を受け17日、現在メジャーでプレーする多くの日本選手が「今の僕らがあるのは野茂さんのおかげ」と声をそろえた。

 ヤンキースの松井秀喜外野手は左ひざ痛に苦しんでいる中で「今日、メジャーリーグで日本人選手が活躍できているのは、野茂さんの大きな力によるものだと思う。違った形でのこれからのご活躍をお祈りします」と話し、レッドソックスの松坂大輔投手は「中学生の時、僕にメジャーリーグという明確な目標を与えてくれた。その時から同じフィールドに立つことを目標としてきた」とコメントした。

 ドジャースの黒田博樹投手は「今ほど環境が整っていない中で長年プレーしたのはすごい。野茂さんが米国での日本選手の評価を上げた。野茂さんの着ていたユニホームでプレーしていることを誇りに思う」と胸を張った。斎藤隆投手は「野球人としても、ドジャースに在籍した投手としても先輩。日本人としてメジャー史に名を刻んだ。引退は残念で悲しいニュースだ」と話した。

 マリナーズの城島健司選手は捕手として大リーグの扉を開けた。「キャッチャーがたまたま先に誰もいなかっただけ。(パイオニアとして)比べるのは野茂さんに失礼ですよ」と語った。

 カブスの福留孝介外野手は「今後は若い選手を育てていくような活動をしてもらえれば、球界にとってよいことだと思います」と現役引退をねぎらった。レイズの岩村明憲内野手は「パイオニアとしてすごい人だし、尊敬していた。メジャーで一度対戦してみたかった」と惜しんだ。(共同)

 オリックス・清原和博「野茂は覚えているかわからないが、(プロでの)最初の三振が僕からだったと思う。高校時代も大阪でやっていて、こんなにすごいやつがおったんかと思った」

【2008/7/18 スポーツ報知】


【MLB】野茂、日米で引退惜しむ声 偉大なパイオニアへ謝辞相次ぐ

 野茂英雄投手(39)の引退表明から一夜明け、日米関係者から偉大なパイオニアへの謝辞が相次いだ。野茂の入団時の監督だったトミー・ラソーダ氏(80)は17日(日本時間18日)に会見し、悔いを残しながら引退した「息子」の心中を思いやった。また、今季の野茂の復帰戦で対戦したヤンキース・松井秀喜外野手(34)、野茂へのあこがれを抱いて海を渡ったレッドソックス・松坂大輔投手(27)、同じドジャースで1年目を迎えた黒田博樹投手(33)ら現役の日本人大リーガーや、日本の公式戦初三振を献上したオリックスの清原和博内野手(40)からも惜しむ声が届いた。

◆恩師・ラソーダ氏「息子のようだった」
 「私にはドジャーブルーの血が流れている」-。この名言で知られるドジャースの象徴・ラソーダ氏が、「息子」の引退に感極まり声を震わせた。

 「ノモは息子のようだった。引退発表は本当につらかったと思う。先駆者として、国を代表して、身一つでやってきて、最高の品格と威厳、人格を示してくれた。彼が日本人選手たちのためにやり遂げたすべてのことを、私は誇りに思う。彼がいなければ、多くの球団は、日本人選手との契約をためらったはずだ」。“トルネード”を常に「日本の息子」といつくしんだ同氏は、心からの賛辞を贈った。

 野茂の2年目だった96年まで21年間、ドジャースの指揮を執った。「野球を愛する馬車馬のような投手」は最後の2年で、同氏の記憶に永遠に残る働きをした。1年目には新人王を取った。96年9月17日には、標高1600メートルで、球が飛びやすいコロラド州のクアーズフィールドでは初となるノーヒッターを達成。この年は、チームをプレーオフにも導いてくれた。数え上げれば、キリがない-。

 「コロラドでノーヒッッターを達成できる投手は、彼以外に誰ひとりとしていない。センセーショナルだった。日本の野球殿堂入りすることは分かりきっているが、米国の野球殿堂にも選ばれることを願う。彼はパイオニアで、世界中から認知されてしかるべきだ」。日米両球界の殿堂入りに値する男-。マウンドを降りた息子へのファイナルメッセージだった。

◆米メディアも報道
 現役引退を表明した野茂について、米メディアは17日、日本選手の大リーグ移籍の先駆けになった投手として伝えた。

 ロサンゼルス・タイムズ(電子版)は「草分けとなる移籍で日本選手に扉を開いた」とし、史上4人目となる両リーグでの無安打無得点試合を達成するなどメジャー通算123勝の実績や「ノモマニア」と呼ばれた熱狂的なファンを生んだ功績を紹介。「No mo’ Nomo(ノーモア・ノモ、野茂はもう見られない)」との惜別記事を掲載した。 (共同)

◆唇かむ清原
 「やり遂げた男でも悔いが残るところに、野茂のすごさを感じた。高校時代も大阪でやっていて、こんなすごいやつがおったんかと思った」-。オリックス・清原和博内野手(40)が18日、かつて「平成の名勝負」と称された好敵手・野茂の引退を惜しんだ。

 最も記憶に刻まれている光景は、近鉄の新人投手対西武の4番として初対戦した時だという。「90年の藤井寺で1回無死満塁で回ってきた。野茂のプロ初三振も僕だった」。5年間の対戦成績は118打数42安打(10本塁打)。野茂が伝家の宝刀のフォークを封印して真っ向勝負を挑み、清原が本塁打で応じたこともある。「直球勝負を挑んだ結果、近鉄が優勝を逃したシーズンもあった」。米球界を渡り歩き、なお手術、リハビリを重ねてマイナーをさまよう姿に「本当に野球が好きなんだな」と共感した。

 PL学園の同級生・桑田の引退、高校時代に名勝負を演じた横浜・石田打撃投手の病死に次ぐ、残念な知らせ。「死闘を繰り広げた投手が次々といなくなり、僕自身もつらい」と唇をかみしめた。 (武藤康弘)

【2008/7/18 中日スポーツ】
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