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【7月12日】2000年(平12) 

 【中日11-8阪神】既に新記録は達成していた。それでも背番号49は「誰も届かない記録」を目指して、カウント2-3まで粘った。

 マウンド上の阪神・吉田豊彦投手がついに根負けして四球。中日・種田仁内野手は、6月2日の巨人9回戦(ナゴヤドーム)で代打として登場、岡島秀樹投手の3球目を中前打して以来、代打11打席連続出塁を果たした。

 これまでの日本記録は96年の広島・町田公二郎外野手、97年の巨人ペドロ・カステヤーノ外野手の9連続。前日の7月11日に、阪神・中込伸投手の初球を右前打して、記録は打ち破っていたが、さらにそれを更新した。

 続く福留孝介三塁手の適時打で生還した種田は上機嫌。「こうなったらどこまでも記録を伸ばしますよ」と言って汗をぬぐった。結局、その4日後、松山での広島16回戦でに三ゴロに打ち取られて、記録はストップしたが、09年7月12日現在、種田が目指した“誰も届かない記録”になってている。

 記録を生んだのは、多くの野球ファンに愛された極端な“ガニマタ打法”による打撃開眼だった。93年にフル出場後、両足首の故障や右ひじ痛で控えに甘んじていた種田。ポジションを奪われ、名球会プレーヤー高木守道監督が現役時代につけていた栄光の背番号1も97年に8試合出場に終わり、打率が1割を切るとはく奪された。

 これでオレの野球人生はおしまいか…。もがき苦しむ日々の中で、自ら“開発”したのが、ガニマタだった。種田は打席に入ると左肩が内側に入りすぎてしまう悪癖があった。これを矯正するのに逆転の発想を用いた。「最初から体を開き、左足でつま先立ちすれば、左肩は入りようがない」。

 格好は悪くとも、結果が欲しかった。わらをもつかむ思いで、新打法に取り組んだ。周囲には笑われ、観客からも「何だ!ふざけているのか!」と罵倒されてもこれしかないと思い込んで意地を通した。

 効果はてき面だった。「ボールがよく見えて。際どいコースも見極められるようになった」。新記録だけでなく、この年7年ぶりに100試合以上に出場。カムバック賞とセ・リーグ連盟会長特別賞がオフに授与された。

 復活した翌年の01年、種田は横浜へ移籍。横浜の新監督に就任した森祇晶監督が種田を指名、レギュラーだった波留敏夫外野手を出してまで欲しがった。「初球から積極的に行くことも、じっくりボールを見極めることもできる打者。勢いだけたで打ってきた横浜の打線に必要な選手」と星野仙一監督を口説き落として獲得にこぎつけた。

 以来、トレード入団ながらこれほどファンに愛された選手もいなかった。種田が打席に入ると、横浜スタジアムの右翼席から一塁側を中心に相手側の応援席まで巻き込んで、応援グッズのプラスチックバットを構え、ガニマタスタイルで音楽に合わせて上下に動く“タネダンス”が大流行。Tシャツなどのグッズまで販売された。

 05年8月30日、広島16回戦(横浜)で大竹寛投手から通算1000本安打をマーク。16年目でたどりついた遅咲きの勲章だった。大阪・上宮高時代にアイドル的な扱いを受け注目された巨人・元木大介内野手とは同級生。元木は通算891安打で終わったが、種田はそれより211本多い、1102安打で08年で引退。現在は古巣ドラゴンズ戦の解説、野球教室などを中心に活躍中。現役時代、元木は“クセ者”の異名をとったが、それ以上に“クセ者”だったのは実は種田であった。


【2009/7/12 スポニチ】

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