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【7月21日】1981年(昭56) 

 【ヤクルト4―4中日】ボールが3つ続いて、普通なら4球目は見送るところだが、「早いところ打ってしまいたい」と思っていた背番号8は、見逃せばボールの真ん中高めのスライダーを強振した。打球は左中間を破り、二塁走者が悠々と生還。打った8番は足を引きずりながらも二塁まで達した。

 浜松市営球場での中日―ヤクルト16回戦の初回、ヤクルトの4番大杉勝男一塁手は中日の先発小松辰雄投手から、通算2000本安打を放った。通算1366打点目のおまけまで付いた一撃に、ヤクルトベンチからそして中日ベンチからも花束が贈呈され、塁上でテレながらも両手を挙げて歓声に応えた。

 が、笑顔の大杉はこの時「痛みと嬉しさと半々の複雑な気持ちだった」。というのも、一塁ベースを回った際に、8日の広島13回戦(広島)で痛めた、左足ふくらはぎの肉離れが再発。やっとの思いで二塁までたどり着いていた。それでも記念すべき日に、これでベンチに下がっては…と3回の2打席目まで立ったが、これが限界。杉浦亨右翼手と交代した。

 思えば、波乱に満ちた野球人生だった。兄が岡山・倉敷工高で春の選抜に出場。甲子園に出発する兄を見送りに行った際に母親に買ってもらったグローブが、野球に真剣に取り組む第一歩となった。岡山の名門、関西高に進学。天性のパンチ力に加え、強肩を買われて捕手となったが、練習中に打者が振ったバットが頭に当たって卒倒。病院に担ぎ込まれたが、治療が嫌で3日後に脱走。この後遺症があり、1年間は野球に集中できなかった。

 2年生になると、今度は父と甲子園に出場した兄が相次いで他界。硬式野球を続けるにはそれ相応の金がかかることから、母の負担を考えて軟式に転部。憧れの甲子園への道は絶たれた。

 それでも野球への道があきらめ切れなかった大杉に声をかけたのが、ノンプロの丸井の監督で、関西高の先輩、後に西武などで2軍監督を務めた岡田悦哉。「オレのところへ来てもう一度やり直せ」と言われ、高校卒業後入社した。

 その丸井もほどなく廃部が決まった。途方にくれていた大杉だったが、プロのスカウトの評価は高く、特に阪神が熱心だった。一方、東映(現、日本ハム)もその打力は買っており、スカウトからの報告を聞いた水原茂監督が獲得を決めた。

 しかし、フロントからは「もう新人獲得の資金は使い切った」と断れた。それでも実際に大杉の打撃を見た、元阪急の西村正夫コーチから「10年に一度の逸材」と強い推薦を受けたことで、阪神より一歩先に契約にこぎ着けた。

 そんな大杉が心のバイブルにしていたのが2通の手紙。1通は父からのものだ。「大杉勝男は野球屋になるのではない、野球の達人になるのだぞ。苦闘ありて、栄冠あり。人生において失意のときの苦しさをじっと忍ぶこと。その苦しみを味わってこそ最大の成長期がある」と書かれていた。

 もう1通は亡き兄から。「勝ちゃん、その道の王様になるのは素質です。勝ちゃんにはそれがあります。あとは努力あるのみです。努力。その字は簡単に書けます。でも難しいことです」。

 2通とも2人の生前最後の手紙だったという。大杉は2000本安打を達成して最初にやりたいことをこう語った。「オヤジと兄貴に線香を手向けたい。今僕がこうして野球をやっていられるのは2人のおかげだから」。

【2011/7/21 スポニチ】

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