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【5月31日】1975年(昭50) 

 【阪神4-3大洋】左手首がバットを持っているだけで悲鳴を上げる。「何度も振れん。一発で仕留めないと…」。打席に立った阪神の主砲・田淵幸一捕手は、胸の内でそうつぶやいた。甲子園での大洋5回戦。7回1死、代打で登場。1点ビハインドの阪神。“ホームランアーチスト”がバットを担いで出てくると、“事情”をほとんど知らない虎党は同点弾を期待してボルテージが上がった。

 本塁打で同点。手負いとはいえここまで16本塁打。大洋・間柴富裕(後に茂有)投手にプレッシャーがかかった。内角高め、見逃せばボールだったかもしれないが、ビビって腕が振れていない分、球威がなかった。田淵のバットが反応した。

 快音を残した打球は左翼へ。中塚政幸左翼手がラッキーゾーンの金網に背をピタリとくっつけた。滞空時間の長い田淵独特の軌道を描いた打球は、中塚の頭上を越えた。17号同点ソロアーチ。阪神ファンの歓喜の渦の中、ダイヤモンドをゆっくりと1周した田淵。主砲の一撃がこの回の逆転劇を生んだ。

 正直なところホームランは田淵の頭の中では考えられなかった。「とにかくフルスイングで引っ張ることができない。当てることが精いっぱいだった。右腕1本で打ったホームランだね。よく飛んでくれた」。

 29日の中日8回戦で鈴木孝政投手の快速球を左手首に食らい、骨折こそしなかったものの痛みと腫れが残った。バットも振れず、捕手として捕球もままならない状態での値千金弾。土曜日でスタンドにはいつもより子供の姿が目立ったが、人気者田渕の代打本塁打は甲子園での野球観戦の何よりの思い出となった。

 「ブチ、子供たちがお前のバッティング見たがっとる。ゲームに出られんのなら、打撃練習くらい外で打てや」。試合前、山本哲也コーチが室内でマシーン相手に打ち込む背番号22に声をかけた。しかし、田淵はマシーンを止めようとしなかった。汗をぬぐいながら田淵は言った。「山本さん。勘弁して下さい。バットをまともに振れない痛々しい姿をファンに見せるのはかえって失礼ですよ。それより代打で出たら、必ず打ちますから」。田淵は舞台裏の苦労や努力はを見せず、ファンの前で最高の結果を出すことだけに集中した。

 翌6月1日の同じ大洋戦。さらに派手な花火が打ち上がった。大洋2点リードで迎えた9回、阪神は1死一、三塁の好機に途中出場の田淵に打順が回ってきた。カウント2-1と追い込んだ大洋の2番手・竹内広明投手。伊藤勲捕手は勝負球にストレートを要求した。十分にスイングできない今の状態に竹内の威力のある真っ直ぐなら打ち取れるという読みがあった。しかし、竹内は首を振った。選択したのは得意のカーブだった。

 そのカーブが肩口から入り甘くなった。これほど長打を呼ぶおいしいボールはない。左中間に飛んでいった打球を外野手はもう追わなかった。逆転サヨナラ3点本塁打。打球の行方をちらっと見ただけで確信した田渕は一塁線上で両腕を高く掲げ、両足でジャンプ。左手首の痛みはどこかへ消えていた。

 「滅多にないホームラン。最初にストライクを取ってきたので、勝負してくるなと思った。打ったのはカーブ。ストレートだったらあんなに飛ばなかっただろう。子供たちにも喜んでもらえた?そうだね。土曜、日曜と打ててよかった」。

 痛みをおしての2発。この年43本塁打の田淵は巨人・王貞治一塁手が13年君臨していたキングの座を10本差をつけて奪取した。

【2009/5/31 スポニチ】
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