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【9月8日】1977年(昭52)
【クラウン9-4ロッテ】最後までマウンドにいたのは、あの“ノーヒットノーラン”以来のことだった。完投の味は5年間すっかり忘れていた。
「低めに投げることだけを肝に銘じて投げた。最後は少しバテた。久しぶりだし…」と、淡々と語った右腕は、クラウンライター(現西武)の五月女(さおとめ)豊投手。口ベタではあったが、プロ初完投勝利を挙げ、メガネの奥の人懐っこい細い目がいっそう細くなった初めてヒーローインタビューは心地良かった。
仙台宮城球場のロッテ後期12回戦。後期優勝を目指すロッテは、2位の日本ハムに3ゲーム差で追われていただけに、4位クラウン戦は是が非でも勝ちたかった。しかも相手投手は“ローテーションの谷間”。好調の打線が早々にKOしてくれるはずだったが、五月女のシュートとフォークにてこずり、6回まで5安打2得点。焦ったロッテ・金田正一監督は同点の6回途中から後半戦抑えの切り札的存在になっていた三井雅晴投手を投入した。
これが裏目に出た。7回、4安打で3点を失い走者を残したまま降板。代わった成重春生投手が竹之内雅史右翼手に22号満塁本塁打を浴び、一挙7点。まさにクラウンにとってラッキーセブンとなった。五月女は8回にレロン・リー左翼手に32号2点本塁打を食らったが、116球で余裕の7安打4失点の完投勝利。シーズン2勝目を挙げた。
84年の大洋(現横浜)を最後に球界から身を引いた五月女は12年間で235試合に登板し18勝(17敗1セーブ)の成績を残したが、この仙台でのナイターが最初で最後の1軍での完投だった。
栃木・鹿沼農商高時代に夏の甲子園に2度出場。社会人の名門日本石油(現、新日本石油ENEOS)の5年目の72年秋、産業別大会で日本生命を相手にノーヒットノーランを演じ、一躍注目された。右肩を痛め、走りこみ重視の練習をせざるを得なかったことで、下半身が安定し、制球が良くなったことが飛躍の一因だった。
72年のドラフトで5番目の指名順位の阪神が1位指名。地元PL学園から日本楽器(現ヤマハ)へ進んだ新美敏投手が3番目の東映に持っていかれたことから第2希望投手だったといわれる。即戦力投手として期待されたが、3年間で23試合1勝2敗の成績に終わった。
当時の阪神はチーム内で選手、首脳陣とも“派閥争い”が活発で、そういうゴタゴタが苦手な五月女は、チームにあまりなじめなかった。75年オフ、優勝まであと一歩に迫りながら3位に終わった吉田義男監督は、ディフェンスに難があった田淵幸一捕手のサブを求め、太平洋クラブの片岡新之介捕手に目をつけた。相手側が要求したのが五月女。双方の思惑が一致しトレードが成立した。阪神のドラフト史上、あの江川卓投手(巨人)の“特例”を除いて、3年でトレードされた“ドライチ”は他に例を見ない。
太平洋、クラウン、西武とライオンズが変転していった中でも中継ぎとして活躍したが、82年に西武は広岡達朗監督が就任したことで構想から外れ、大洋へ無償トレード。もともと馬力のある投手だったが、関根潤三監督は先発に中継ぎに、時には抑えにとベテランの域に入った“トメさん”をあらゆる場面で投入。移籍1年目の82年に自己最多の58試合登板、6勝をマークした。
引退後は故郷に帰り、保険の代理店業に。その傍らで投手としてはバリバリの“現役”。マスターズリーグでも勇姿をみせているが、全国大会3連覇の鹿沼ロータリークラブでは主戦投手としてフル回転。09年で60歳。丈夫で長持ちの還暦右腕は健在である。
【2008/9/8 スポニチ】
【クラウン9-4ロッテ】最後までマウンドにいたのは、あの“ノーヒットノーラン”以来のことだった。完投の味は5年間すっかり忘れていた。
「低めに投げることだけを肝に銘じて投げた。最後は少しバテた。久しぶりだし…」と、淡々と語った右腕は、クラウンライター(現西武)の五月女(さおとめ)豊投手。口ベタではあったが、プロ初完投勝利を挙げ、メガネの奥の人懐っこい細い目がいっそう細くなった初めてヒーローインタビューは心地良かった。
仙台宮城球場のロッテ後期12回戦。後期優勝を目指すロッテは、2位の日本ハムに3ゲーム差で追われていただけに、4位クラウン戦は是が非でも勝ちたかった。しかも相手投手は“ローテーションの谷間”。好調の打線が早々にKOしてくれるはずだったが、五月女のシュートとフォークにてこずり、6回まで5安打2得点。焦ったロッテ・金田正一監督は同点の6回途中から後半戦抑えの切り札的存在になっていた三井雅晴投手を投入した。
これが裏目に出た。7回、4安打で3点を失い走者を残したまま降板。代わった成重春生投手が竹之内雅史右翼手に22号満塁本塁打を浴び、一挙7点。まさにクラウンにとってラッキーセブンとなった。五月女は8回にレロン・リー左翼手に32号2点本塁打を食らったが、116球で余裕の7安打4失点の完投勝利。シーズン2勝目を挙げた。
84年の大洋(現横浜)を最後に球界から身を引いた五月女は12年間で235試合に登板し18勝(17敗1セーブ)の成績を残したが、この仙台でのナイターが最初で最後の1軍での完投だった。
栃木・鹿沼農商高時代に夏の甲子園に2度出場。社会人の名門日本石油(現、新日本石油ENEOS)の5年目の72年秋、産業別大会で日本生命を相手にノーヒットノーランを演じ、一躍注目された。右肩を痛め、走りこみ重視の練習をせざるを得なかったことで、下半身が安定し、制球が良くなったことが飛躍の一因だった。
72年のドラフトで5番目の指名順位の阪神が1位指名。地元PL学園から日本楽器(現ヤマハ)へ進んだ新美敏投手が3番目の東映に持っていかれたことから第2希望投手だったといわれる。即戦力投手として期待されたが、3年間で23試合1勝2敗の成績に終わった。
当時の阪神はチーム内で選手、首脳陣とも“派閥争い”が活発で、そういうゴタゴタが苦手な五月女は、チームにあまりなじめなかった。75年オフ、優勝まであと一歩に迫りながら3位に終わった吉田義男監督は、ディフェンスに難があった田淵幸一捕手のサブを求め、太平洋クラブの片岡新之介捕手に目をつけた。相手側が要求したのが五月女。双方の思惑が一致しトレードが成立した。阪神のドラフト史上、あの江川卓投手(巨人)の“特例”を除いて、3年でトレードされた“ドライチ”は他に例を見ない。
太平洋、クラウン、西武とライオンズが変転していった中でも中継ぎとして活躍したが、82年に西武は広岡達朗監督が就任したことで構想から外れ、大洋へ無償トレード。もともと馬力のある投手だったが、関根潤三監督は先発に中継ぎに、時には抑えにとベテランの域に入った“トメさん”をあらゆる場面で投入。移籍1年目の82年に自己最多の58試合登板、6勝をマークした。
引退後は故郷に帰り、保険の代理店業に。その傍らで投手としてはバリバリの“現役”。マスターズリーグでも勇姿をみせているが、全国大会3連覇の鹿沼ロータリークラブでは主戦投手としてフル回転。09年で60歳。丈夫で長持ちの還暦右腕は健在である。
【2008/9/8 スポニチ】
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