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【9月6日】1962年(昭37)
【阪神2-0大洋】いつも通り試合に出るはずだった。前日の9月5日、700試合連続フルイニング出場を果たした阪神・三宅秀史三塁手は、川崎球場での大洋23回戦前、これまたいつも通り安藤統男内野手と左翼付近でキャッチボールをしていた。グラウンドでは大洋が打撃練習中、センター付近ではこの日の先発、阪神・小山正明投手が山本哲也捕手を相手に遠投で肩慣らしをしていた。
今では考えられないような、両軍がグラウンドで入り混じっての練習風景。外野で打撃練習の球拾いをしている大洋の選手と小山が世間話をしている光景もみられた。針の穴を通す“精密機械”といわれた小山のコントロールが乱れたのは、そんな時だった。山本の頭の上を越えたボールは、後ろにいた三宅の後頭部めがけて飛んだ。「危ない!」誰ともなく叫ぶと、三宅が振り返った。その瞬間、わずか1秒足らず…。阪神ナインが息をのんだ。球は三宅の左眼を直撃した。
目から鮮血が流れた。慌てて担架に乗せられた三宅は救急車に乗って病院へ運ばれた。この時点で三宅の連続出場記録はストップ。1956年(昭31)4月11日、奇しくも同じ川崎球場での大洋3回戦、先発も小山で行われた試合から始まった記録が、プレイボール直前の不慮の事故で絶たれてしまった。
2位大洋との首位攻防戦。どうしても落とせない阪神・藤本定義監督は動揺する小山を落ち着かせた。「三宅のことは心配だが、ここで負けたらアイツがもっと気にしてしまう。お前がしっかりやることが三宅を安心させる」。この年、対大洋5勝1敗の小山は、その言葉通り試合に集中した。終わってみれ散発5安打完封、10奪三振の力投だった。三宅に代わって7番・三塁に入った朝井茂治内野手が8回、試合を決定づける二塁打を放った。
試合終了後、談話を取ろうとする番記者に小山が逆質問した。「三宅はどうした?」。吉田義男遊撃手、小山、三宅は53年入団の同期。誰よりも記録を途切れさせたことを気にし、誰よりもけがの具合を心配していた。
そのころ三宅は川崎市立病院のベッドの上にいた。左眼周辺を5針縫い、眼底出血と診断された。その後慶応病院へ転院し手術を受けたが、視力は0・1まで低下。回復することはなかった。
2リーグ分裂後、初優勝を飾ったこの年のタイガースだったが、そこに功労者・三宅の姿はなかった。けがの回復は順調ではなく、病院のベッドに横たわり、日本シリーズをテレビ観戦するしかなかった。三宅は後にこの時のアクシデントについて多くを語らず「自分の不注意」とだけ言って誰も責めなかった。 結局、このケガで選手生命は事実上終わった。引退までの5年間での出場試合数はわずか117。華麗な守備でファンを魅了した三塁には70試合しか入らなかった。引退後は阪神のコーチを務めたこともあったが、その後球界から身を引き、病院の事務職の仕事に就いた。
岡山・南海高(現倉敷鷲羽高)にエースの田代照勝投手(国鉄、通算56試合6勝6敗)をスカウトに来た、通算127勝の往年の阪神名投手、御園生崇男(みそのう・たかお)スカウトが、田代が国鉄に先取りされた代わりに獲得したのが三宅だった。
“ミスタータイガース”藤村富美男三塁手の力が衰えた1955年ごろから正三塁手として出場。後に派手なプレーで人気を呼んだ巨人・長嶋茂雄三塁手と比べ、巨人・水原茂監督は2人をこう評した。「三宅の守備に比べたら長嶋のそれは素人」。まだゴールデングラブ賞などない時代だった。
同期の吉田は「三遊間寄りの打球に強かったのが三宅。僕は二遊間寄りの方が得意。互いが弱点を補完していた」と鉄壁の三遊間の秘密を明かしているが、、二塁の鎌田実と3人で阪神の内野の間を抜いて安打にするのは難しかった。
若い阪神ファンの間で三宅の名前が知られるようになったのは、金本知憲外野手の連続試合出場記録が話題に上ってから。04年8月2日、金本は甲子園での巨人21回戦で、三宅の持つ700試合連続フルイニング出場記録を更新、701試合とした。その試合後、花束を渡したのが三重県鈴鹿市に住む三宅。阪神が18年ぶりに優勝した03年に生体肝移植の手術を受けたこともあり、甲子園での試合観戦は実に15年ぶりだった。
試合前に金本と初対面した三宅は「ボディーがいいね。腹も出てないし、足腰も鍛えられてる。こんな立派な選手に記録を抜いてもらうのはうれしいこと。まだ10年でも続けられるんじゃない」と賛辞を惜しまなかった。
【2008/9/6 スポニチ】
【阪神2-0大洋】いつも通り試合に出るはずだった。前日の9月5日、700試合連続フルイニング出場を果たした阪神・三宅秀史三塁手は、川崎球場での大洋23回戦前、これまたいつも通り安藤統男内野手と左翼付近でキャッチボールをしていた。グラウンドでは大洋が打撃練習中、センター付近ではこの日の先発、阪神・小山正明投手が山本哲也捕手を相手に遠投で肩慣らしをしていた。
今では考えられないような、両軍がグラウンドで入り混じっての練習風景。外野で打撃練習の球拾いをしている大洋の選手と小山が世間話をしている光景もみられた。針の穴を通す“精密機械”といわれた小山のコントロールが乱れたのは、そんな時だった。山本の頭の上を越えたボールは、後ろにいた三宅の後頭部めがけて飛んだ。「危ない!」誰ともなく叫ぶと、三宅が振り返った。その瞬間、わずか1秒足らず…。阪神ナインが息をのんだ。球は三宅の左眼を直撃した。
目から鮮血が流れた。慌てて担架に乗せられた三宅は救急車に乗って病院へ運ばれた。この時点で三宅の連続出場記録はストップ。1956年(昭31)4月11日、奇しくも同じ川崎球場での大洋3回戦、先発も小山で行われた試合から始まった記録が、プレイボール直前の不慮の事故で絶たれてしまった。
2位大洋との首位攻防戦。どうしても落とせない阪神・藤本定義監督は動揺する小山を落ち着かせた。「三宅のことは心配だが、ここで負けたらアイツがもっと気にしてしまう。お前がしっかりやることが三宅を安心させる」。この年、対大洋5勝1敗の小山は、その言葉通り試合に集中した。終わってみれ散発5安打完封、10奪三振の力投だった。三宅に代わって7番・三塁に入った朝井茂治内野手が8回、試合を決定づける二塁打を放った。
試合終了後、談話を取ろうとする番記者に小山が逆質問した。「三宅はどうした?」。吉田義男遊撃手、小山、三宅は53年入団の同期。誰よりも記録を途切れさせたことを気にし、誰よりもけがの具合を心配していた。
そのころ三宅は川崎市立病院のベッドの上にいた。左眼周辺を5針縫い、眼底出血と診断された。その後慶応病院へ転院し手術を受けたが、視力は0・1まで低下。回復することはなかった。
2リーグ分裂後、初優勝を飾ったこの年のタイガースだったが、そこに功労者・三宅の姿はなかった。けがの回復は順調ではなく、病院のベッドに横たわり、日本シリーズをテレビ観戦するしかなかった。三宅は後にこの時のアクシデントについて多くを語らず「自分の不注意」とだけ言って誰も責めなかった。 結局、このケガで選手生命は事実上終わった。引退までの5年間での出場試合数はわずか117。華麗な守備でファンを魅了した三塁には70試合しか入らなかった。引退後は阪神のコーチを務めたこともあったが、その後球界から身を引き、病院の事務職の仕事に就いた。
岡山・南海高(現倉敷鷲羽高)にエースの田代照勝投手(国鉄、通算56試合6勝6敗)をスカウトに来た、通算127勝の往年の阪神名投手、御園生崇男(みそのう・たかお)スカウトが、田代が国鉄に先取りされた代わりに獲得したのが三宅だった。
“ミスタータイガース”藤村富美男三塁手の力が衰えた1955年ごろから正三塁手として出場。後に派手なプレーで人気を呼んだ巨人・長嶋茂雄三塁手と比べ、巨人・水原茂監督は2人をこう評した。「三宅の守備に比べたら長嶋のそれは素人」。まだゴールデングラブ賞などない時代だった。
同期の吉田は「三遊間寄りの打球に強かったのが三宅。僕は二遊間寄りの方が得意。互いが弱点を補完していた」と鉄壁の三遊間の秘密を明かしているが、、二塁の鎌田実と3人で阪神の内野の間を抜いて安打にするのは難しかった。
若い阪神ファンの間で三宅の名前が知られるようになったのは、金本知憲外野手の連続試合出場記録が話題に上ってから。04年8月2日、金本は甲子園での巨人21回戦で、三宅の持つ700試合連続フルイニング出場記録を更新、701試合とした。その試合後、花束を渡したのが三重県鈴鹿市に住む三宅。阪神が18年ぶりに優勝した03年に生体肝移植の手術を受けたこともあり、甲子園での試合観戦は実に15年ぶりだった。
試合前に金本と初対面した三宅は「ボディーがいいね。腹も出てないし、足腰も鍛えられてる。こんな立派な選手に記録を抜いてもらうのはうれしいこと。まだ10年でも続けられるんじゃない」と賛辞を惜しまなかった。
【2008/9/6 スポニチ】
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