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【2月4日】1980年(昭55)

 阪神・掛布雅之三塁手が京都の神社の節分祭(例年は3日、この年は4日に開催)に招かれ練習を早退したこの日、往年の名三塁手・三宅秀史にあやかって背番号16を付けた新人選手が念願のホットコーナーに入り、甲子園でシートノックを受けた。

 6球団に1位指名され、意中の阪神に引き当てられて入団した早稲田大学のスラッガー・岡田彰布内野手は、嬉々としてボールを追いかけた。ジャンピングスローにダイビング、難しい三塁線の打球も好フィルディングで処理。「サードは僕の本職。ここで勝負したいです」と岡田が笑顔で話せば、ノックバットを握った安藤統男内野守備コーチも「さすが東京六大学でならしたサードや。絵になる。掛布も楽じゃないぞ」と絶賛。気を良くした岡田はシートバッティングで、同じルーキーの大町定夫投手から2本の本塁打を放った。

 これで岡田・掛布の熱いポジション争いがぼっ発か?とタイガースの番記者は色めき立った。しかし、厳しい視線をグランドに向けるドン・ブレイザー監督は冷徹にこう言ってその可能性を完全否定した。「岡田にサードを守らせたのは掛布がいなかった、ただそれだけの理由。岡田はこれからいろいろなポジションをテストさせる。一塁の練習が一番多くなると思うが、外野もやってもらう」。

 ブレイザー構想の中に“サード・岡田”は全くなく、後年レギュラーポジションとなった二塁も考えていなかった。内野なら一塁、あるいは外野でというプランしか頭になかった。

 「ずっとサードしかやってこなかったので…。一塁ならまだいいけど、外野は自信がない」と戸惑う岡田。弱気になっているゴールデンルーキーに追いうちをかけるように、阪神は元ヤクルトのデーブ・ヒルトン内野手を獲得。ブレイザー監督がフロントの反対を押し切っての入団だった。

 ヒルトンの本職は二塁手。78年、ヤクルト初の日本一の際には1番打者として、打率3割1分9厘、19本塁打、76打点と活躍したが、翌年は守備の粗さが目立ち解雇。広岡達朗監督らに二塁手失格の烙印を押されてしまった。

 守備の難点を少しでも目立たなくするため、「ヒルトンは一塁で使う」とブレイザーは明言。岡田と競わせるというより、それはルーキーの外野転向を意味するものだった。

 米アリゾナ州テンピに移動してのキャンプ中、岡田はほとんど外野手として練習。帰国後、最初のオープン戦となった3月18日の西武戦(甲子園)では「8番・右翼」の“ライパチ”で先発出場。打球の判断は甘く、ライナーをヒットにしてしまい、元ミスター・タイガース、田淵幸一一塁手の右中間への飛球も落球した。

 この試合の9回、岡田は西武・松沼博久(兄)投手から左翼に3点本塁打を放ち、チームの完封負けを阻止したが、お粗末だった守備にブレイザー監督は「他にも外野手はいる」と、岡田に冷たい言葉を浴びせた。

 地元・北陽高出身の岡田の人気は関西で大変なものだった。岡田に対するブレイザーの“仕打ち”にタイガースファンは怒りを募らせ、それに呼応するかのように岡田の外野転向とヒルトン獲得を快く思っていなかった球団とブレイザーの間の溝は広がっていった。

 開幕1軍メンバーに入ったものの、岡田の出番はなく、連日ベンチに張り付いた“かまぼこ”状態。「岡田をどうして使わんのや!」とファンの不満は頂点に達し、「岡田が出られないのはヒルトンのせいや」という話になっていった。ブレイザーが期待していたほど、ヒルトンのバットは火を噴かなかったこともあり、試合後にヒルトンはファンに取り囲まれ乗っていた車が蹴られて傷だらけになったこともあった。

 ついに小津正次郎球団社長が動いたのは、4月22日。横浜スタジアムでの大洋3回戦の前、小津-ブレイザーの会談が2時間行われ、けがで登録抹消された掛布に代わり、「ファンも待っている。分かってくれるね」と岡田の三塁での起用を小津が強く要求。「選手起用に踏み込まれれば辞任する」と口にしていたブレイザーは「ファンの人気取りより勝つことが大事だ。岡田は戦力になっていない」と突っぱねたが、不振のヒルトンのことを持ち出されては強くも出られず、要求をのまざるを得なかった。

 岡田は「8番・三塁」でプロ入り初スタメン。8回の第4打席、大洋の左腕・加藤英美投手から左前適時打を放ち、プロ入り初安打初打点を記録。タイガースは9-4での快勝。岡田のスタメン、初ヒットにネット裏の貴賓室で観戦した小津社長は「私は監督に何もいってない。江川問題じゃないがあうんの呼吸だよ」と、“オズの魔法使い”といわれたネゴシエターはご満悦だった。

 その後サード・岡田は水を得た魚のように活躍、5月1日の巨人5回戦の2回、新浦寿夫投手から左中間のラッキーゾーンへ飛び込むプロ1号の3ランホーマーを放ち、これが決勝弾となって阪神はこの年巨人から初勝利を挙げた。

 一方、“敵役”のヒルトンは18試合で打率1割9分7厘0本塁打で5月10日に解雇が決定。球団はブレイザーに相談なしで新外国人選手としてニューヨーク・メッツのブルース・ボウクレア外野手を入団させた。外野手の獲得は、岡田を内野に戻せという露骨な指令であり、ブレイザーがこれを認めないことは百も承知していた。激怒したブレイザーは5月15日、辞任を口にすると、小津社長はいとも簡単にこれを了承。中西太打撃コーチを代理監督に立てた。

 阪神お得意のお家騒動の典型ともいえる事件だったが、岡田の前途はこれで開けた。この年108試合に出場し、三塁での出場は最多の60試合。打率2割9分、本塁打18で新人王を獲得した。三塁手としては81年6試合出場したのを最後に公式戦では二度と守らず、二塁に専念して現役生活を16年続けた。

 ブレイザーは翌年、古巣南海の監督として日本球界に復帰。しかし、81年5位、82年6位で辞任し阪神を見返すことはできなかった。05年4月13日、アリゾナの自宅で心臓まひのため死去。享年73歳。南海のコーチ時代、考える野球を意味する「シンキング・ベースボール」を提唱し、弱冠34歳の野村克也捕手兼任監督を支え、以後名将といわれた野村監督の野球の原点となったことを思えば、日本球界への功績は大きかった。


【2008/2/4 スポニチ】
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