日本搞笑界的天王萩本欽一,在今年考上了駒澤大學,
這篇是朝日新聞的專訪,有著天王獨特的人生觀,
其中標題也提到的「繞遠路吧~就算是一直失敗也沒關係」的理論,
其實是藉由失敗帶來的繞路,來搜尋出成功之路的重要過程
まず一歩下がって、世界を広く見ろ。もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろ
先退一步,看看世界有多寬廣,
多繞點路,開始和別人不一樣的冒險
人生不是只有順境,遇到逆境時應該如何去思索這個逆境的意義,
相對的,如果人生沒有逆境,我相信這個人生可能也不會太精彩吧!
網路上新聞這麼多,就會在人生逆境中看到這篇,
只能說這就是緣份使然~注定要看到的
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高校を出て、浅草でお笑いの道に入ってから55年。萩本欽一さんが今春、駒沢大学仏教学部の社会人入試に合格し、74歳の学生生活を楽しんでいる。かつて人気バラエティー番組を多く世に出し、お茶の間の笑いを独占した「欽ちゃん」。いまの若者を、笑いと時代の移ろいを、どう見ているのか。放課後に聞いた。
萩本欽一さんに聞く「テレビが娯楽の2番になったワケ」
――学生生活はいかがですか。
「楽しいよお。毎日、朝から学校に行ってるよ。今日は英語、仏教漢文、ドイツ語でした。ちょっと語学が苦手なんだけど」
「明日、会う人がいる、しゃべる誰かがいるっていうのが、この年になると一番幸せだと思うの。年を取ると、周りと付き合いづらくなってね。僕もいつの間にか『大将』と祭り上げられていた。大学では、20歳前後の子がみんな『欽ちゃん』と呼んでくれる」
――どうしてまた、大学に?
「僕たちの世代って、人生ずっと頑張ってきて、ようやく肩の荷を下ろし、自分にご褒美をあげるころなの。でも僕はずっと、みんなの逆を行って生きてきた。だから去年、舞台を引退したときに何か新しい荷を背負おうと思ったの。それが受験勉強だった」
「僕は仏教学部を『仏様の教え』と読んだからね。いい言葉がたくさんあるに違いない、その言葉に会いに行こうって思った。母ちゃんも大学には絶対行けといっていたし。ご免よ、ちょっと遠回りしてって感じかな」
――キャンパスでは若者と普通に会話しているんですか。
「もちろん。就活で暗い顔した4年生に喫煙所で会ってね。僕、言ったの。いろんな職業の人に会ってきたけど、半分は『好きで始めた仕事じゃねえ』って人だった。オヤジがかわいそうで家業を継いだ、とか。でも、そんな人の、いまは幸せって笑顔を何度も見たよってね。そしたら、『幅が広がった』って、うれしそうに飛んでった」
「人のお世話をする仕事をしたいっていう女子には、いいねえ、あんたがおばあちゃんの面倒なんかみたら、アイドルになるんじゃないのって言ったの。笑顔がとってもいい娘(こ)でね。そしたら泣き出しちゃった。こんなに認めてもらえたのは初めてだって」
――何が見えました?
「もしかして、僕たち大人は若者とちゃんと会話をしてないんじゃないか。親は子に重すぎる夢を負わせていないか。だから若者は働くイメージも持てず、窮屈で、生きにくい世の中になっているんじゃないかって」
「とにかくみんな、前へ前へと進みたがることも気になるね。モデルになる誰かを見つけて、すぐにマネしようとする。でもね、人生はそんなに簡単に前には進まないよ。偉人の伝記を読めばわかるでしょ。最初は失敗だらけなんだから。だから僕はいつも言うの。まず一歩下がって、世界を広く見ろ。もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろって」
――でも、萩本さんの人生は順調だったんでしょう。
「違うよお。高校を出て浅草の劇場で修業を始めたんだけど、実はあがり症でね。セリフも忘れ、本当に才能がなかった。3カ月で演出の先生に呼ばれ、やめるなら早いうちだと言われて、『やめます』って答えちゃった」
「しょんぼりしていたら、先輩が『どうした』と聞くの。事情を話すと、飛んで行って先生に掛け合ってくれた。それで残れたの。後で先生から言われたよお。お前みたいな下手くそを止めにきた奴(やつ)がいる。こういうのが芸の世界では大事なんだ。応援したい、って周りに思ってもらうのが俺たちの仕事だから。欽坊、やめるなよ、って。もう、泣いちゃったよ」
「人生は出会いだって、よく言うけど、ちょっと違うね。出会いっていうのは、人にただ会うことじゃないんだ。苦労をして、マイナスの経験をいくつも積んで初めて、会うべき人に出会える。なぜ自分がダメだったのか、生きていくうえで何が足りなかったのか。本当の出会いなら、その答えが見えてくるもんだよ」
――運と才能。成功するには、どちらが大事でしたか。
「8割は運だね。そいつは正面からは来ない。思ってもみないところからやってくるから、なかなかつかまえられないのよ。後ろから肩をトントンやる奴がいて、うるせえなこの野郎って、振り向いたら何だ、ここにいたのか、というのが運なんだよ。坂上二郎さんとの出会いがそうだった」
「浅草では突っ込みのライバルでね。しつこくって苦手だった。好きな人100人に電話しろと言われたら、101番目に電話する人だったね。でも、その二郎さんが何と、僕に電話してきたの。テレビで大失敗した僕が、意気消沈して行った熱海のショーから戻った日だった。コントを思いついたばかりでね。話したら、2人でしたほうがきっと面白いって。それがコント55号の始まり。運は二郎さんが全部持ってきてくれた」
――飛び蹴りをして、舞台を縦横に駆け回る姿が衝撃でした。
「浅草では言葉で笑わせたりすると先輩に張り倒されたんだよ。動きや体、芝居で笑わせろって。でもね、コント55号でテレビに出始めて気付いたの。芸って深いものなのに、テレビはそれを映さない。動きも伝わらない。なのに芸をやり、動きの笑いをやってたら間抜けだろうって。それで言葉の笑いに移っていった。投稿を募る『欽ドン!』や、ドラマ仕立ての『欽どこ』につながったの」
――テレビは何が違いました?
「コント55号の練習中に、連合赤軍が人質をとって立てこもった浅間山荘事件(72年)を生中継しててね。窓に影が映ったというだけで、みんなテレビの前にすっ飛んで行ったの。ディレクターまでもが。こっちは懸命に稽古しているのに。で、気付いたわけ。テレビは何が面白いとか、何がいいとかじゃなく、次に何が起こるかわからないときに最も人を引きつけるんだ。予測不能の『いま』を撮れば面白くなるんだって」
――それがヒットの秘訣(ひけつ)?
「秘訣がわかれば、まだテレビをつくってるよ。ただ、振り返ったら、みんながやっていることはしない、という一点だけは貫いてきたね。世の中には優れものが大勢いる。僕なんかがマネしてもかなわない、とわかってたから」
「子役をどうやって選ぶかテレビ局に聞いたら、タレント事務所に電話したらなんぼでも来ます、どの局もそうしてますって言う。『じゃあ、それをやめてください』っていうだけで変わったね。あるディレクターは、何かピンとくるいい子役を求めて、全国を歩いたっていうし」
「遠回りすれば、人間いろいろ考える。いろんな出来事にぶつかる。もちろん、いいことばかりとは限らないよ。でも、とてつもなくいいものにぶつかることが、あるんだよ。その出会いにこそ物語が生まれる。それが大事なのよ。そういう物語に、人は心を動かされるんだから」
――時代が変わると、笑いも変わるものですか。
「変わります。昭和の笑いには、下の者が上の者をちゃかす快感があってね。偉い社長さんをごまかし、インチキするサラリーマンの姿が笑いをとっていた。すき焼きの場面で、ネギで肉を隠しながら食べる姿がおかしかった。笑いというのは貧しい大衆、ちょっとダメ扱いされている人間たちの反撃でもあったの。でも日本が豊かになると、すき焼き自体が珍しくなくなり、社長さんにも文句を言うようになって、反撃の笑いが成り立ちにくくなってきた」
――時代は巡り、いま再び、貧困と格差が広がっています。
「笑いはみんなの共感を呼ぶものに敏感だから、本当に大変な時代が来たら貧困も格差もネタにすると思うよ。笑いは必ず時代に追いついてくる。それに笑いには、直接は言えないことを遠回しに伝える大事な働きもあるんです。みんな何かヘンだなあと思っていることを、笑いが社会に広く伝えるということがあるの」
――これから、どんな新しい笑いが生まれるのでしょう。
「なんだ、こんなことが笑いになるのか、という何かでしょう。これまでのジャンルには収まりきらない何か。本当に新しい何かが生まれるときはラベルから変わるもの。僕らだって最初、コントって何ですか、漫才とどう違うんですかって聞かれて困り、さあ何ですかねえって答えてたもん」
――もしかして、その「何か」をいま大学で探しておられる?
「うっ。まあ、そのー、大学に通って若いのに毎日会っているうちに、僕のなかの何かが変わって、結果的に何か新しい笑いが見えてこないかなあっていう気持ちが、実はないこともないんだけど。まだ、いいことないなあ」
――いまも現役なんですね。
「もちろん。生まれ変わってもコメディアンだよ。ただ、またダメなコメディアンから出発したいね。ダメな若い奴が上を目指してもがく姿に、支えてやろうって気持ちが生まれたんだと思うから」(聞き手・萩一晶)
◇
41年生まれ。60年に浅草東洋劇場入り。66年にコント55号結成。「欽ドン!」など冠番組も人気を集めた。「仮装大賞」では司会を務める。
2015.7.11 朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASH785CSZH78UPQJ00G.html
這篇是朝日新聞的專訪,有著天王獨特的人生觀,
其中標題也提到的「繞遠路吧~就算是一直失敗也沒關係」的理論,
其實是藉由失敗帶來的繞路,來搜尋出成功之路的重要過程
まず一歩下がって、世界を広く見ろ。もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろ
先退一步,看看世界有多寬廣,
多繞點路,開始和別人不一樣的冒險
人生不是只有順境,遇到逆境時應該如何去思索這個逆境的意義,
相對的,如果人生沒有逆境,我相信這個人生可能也不會太精彩吧!
網路上新聞這麼多,就會在人生逆境中看到這篇,
只能說這就是緣份使然~注定要看到的
================================
高校を出て、浅草でお笑いの道に入ってから55年。萩本欽一さんが今春、駒沢大学仏教学部の社会人入試に合格し、74歳の学生生活を楽しんでいる。かつて人気バラエティー番組を多く世に出し、お茶の間の笑いを独占した「欽ちゃん」。いまの若者を、笑いと時代の移ろいを、どう見ているのか。放課後に聞いた。
萩本欽一さんに聞く「テレビが娯楽の2番になったワケ」
――学生生活はいかがですか。
「楽しいよお。毎日、朝から学校に行ってるよ。今日は英語、仏教漢文、ドイツ語でした。ちょっと語学が苦手なんだけど」
「明日、会う人がいる、しゃべる誰かがいるっていうのが、この年になると一番幸せだと思うの。年を取ると、周りと付き合いづらくなってね。僕もいつの間にか『大将』と祭り上げられていた。大学では、20歳前後の子がみんな『欽ちゃん』と呼んでくれる」
――どうしてまた、大学に?
「僕たちの世代って、人生ずっと頑張ってきて、ようやく肩の荷を下ろし、自分にご褒美をあげるころなの。でも僕はずっと、みんなの逆を行って生きてきた。だから去年、舞台を引退したときに何か新しい荷を背負おうと思ったの。それが受験勉強だった」
「僕は仏教学部を『仏様の教え』と読んだからね。いい言葉がたくさんあるに違いない、その言葉に会いに行こうって思った。母ちゃんも大学には絶対行けといっていたし。ご免よ、ちょっと遠回りしてって感じかな」
――キャンパスでは若者と普通に会話しているんですか。
「もちろん。就活で暗い顔した4年生に喫煙所で会ってね。僕、言ったの。いろんな職業の人に会ってきたけど、半分は『好きで始めた仕事じゃねえ』って人だった。オヤジがかわいそうで家業を継いだ、とか。でも、そんな人の、いまは幸せって笑顔を何度も見たよってね。そしたら、『幅が広がった』って、うれしそうに飛んでった」
「人のお世話をする仕事をしたいっていう女子には、いいねえ、あんたがおばあちゃんの面倒なんかみたら、アイドルになるんじゃないのって言ったの。笑顔がとってもいい娘(こ)でね。そしたら泣き出しちゃった。こんなに認めてもらえたのは初めてだって」
――何が見えました?
「もしかして、僕たち大人は若者とちゃんと会話をしてないんじゃないか。親は子に重すぎる夢を負わせていないか。だから若者は働くイメージも持てず、窮屈で、生きにくい世の中になっているんじゃないかって」
「とにかくみんな、前へ前へと進みたがることも気になるね。モデルになる誰かを見つけて、すぐにマネしようとする。でもね、人生はそんなに簡単に前には進まないよ。偉人の伝記を読めばわかるでしょ。最初は失敗だらけなんだから。だから僕はいつも言うの。まず一歩下がって、世界を広く見ろ。もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろって」
――でも、萩本さんの人生は順調だったんでしょう。
「違うよお。高校を出て浅草の劇場で修業を始めたんだけど、実はあがり症でね。セリフも忘れ、本当に才能がなかった。3カ月で演出の先生に呼ばれ、やめるなら早いうちだと言われて、『やめます』って答えちゃった」
「しょんぼりしていたら、先輩が『どうした』と聞くの。事情を話すと、飛んで行って先生に掛け合ってくれた。それで残れたの。後で先生から言われたよお。お前みたいな下手くそを止めにきた奴(やつ)がいる。こういうのが芸の世界では大事なんだ。応援したい、って周りに思ってもらうのが俺たちの仕事だから。欽坊、やめるなよ、って。もう、泣いちゃったよ」
「人生は出会いだって、よく言うけど、ちょっと違うね。出会いっていうのは、人にただ会うことじゃないんだ。苦労をして、マイナスの経験をいくつも積んで初めて、会うべき人に出会える。なぜ自分がダメだったのか、生きていくうえで何が足りなかったのか。本当の出会いなら、その答えが見えてくるもんだよ」
――運と才能。成功するには、どちらが大事でしたか。
「8割は運だね。そいつは正面からは来ない。思ってもみないところからやってくるから、なかなかつかまえられないのよ。後ろから肩をトントンやる奴がいて、うるせえなこの野郎って、振り向いたら何だ、ここにいたのか、というのが運なんだよ。坂上二郎さんとの出会いがそうだった」
「浅草では突っ込みのライバルでね。しつこくって苦手だった。好きな人100人に電話しろと言われたら、101番目に電話する人だったね。でも、その二郎さんが何と、僕に電話してきたの。テレビで大失敗した僕が、意気消沈して行った熱海のショーから戻った日だった。コントを思いついたばかりでね。話したら、2人でしたほうがきっと面白いって。それがコント55号の始まり。運は二郎さんが全部持ってきてくれた」
――飛び蹴りをして、舞台を縦横に駆け回る姿が衝撃でした。
「浅草では言葉で笑わせたりすると先輩に張り倒されたんだよ。動きや体、芝居で笑わせろって。でもね、コント55号でテレビに出始めて気付いたの。芸って深いものなのに、テレビはそれを映さない。動きも伝わらない。なのに芸をやり、動きの笑いをやってたら間抜けだろうって。それで言葉の笑いに移っていった。投稿を募る『欽ドン!』や、ドラマ仕立ての『欽どこ』につながったの」
――テレビは何が違いました?
「コント55号の練習中に、連合赤軍が人質をとって立てこもった浅間山荘事件(72年)を生中継しててね。窓に影が映ったというだけで、みんなテレビの前にすっ飛んで行ったの。ディレクターまでもが。こっちは懸命に稽古しているのに。で、気付いたわけ。テレビは何が面白いとか、何がいいとかじゃなく、次に何が起こるかわからないときに最も人を引きつけるんだ。予測不能の『いま』を撮れば面白くなるんだって」
――それがヒットの秘訣(ひけつ)?
「秘訣がわかれば、まだテレビをつくってるよ。ただ、振り返ったら、みんながやっていることはしない、という一点だけは貫いてきたね。世の中には優れものが大勢いる。僕なんかがマネしてもかなわない、とわかってたから」
「子役をどうやって選ぶかテレビ局に聞いたら、タレント事務所に電話したらなんぼでも来ます、どの局もそうしてますって言う。『じゃあ、それをやめてください』っていうだけで変わったね。あるディレクターは、何かピンとくるいい子役を求めて、全国を歩いたっていうし」
「遠回りすれば、人間いろいろ考える。いろんな出来事にぶつかる。もちろん、いいことばかりとは限らないよ。でも、とてつもなくいいものにぶつかることが、あるんだよ。その出会いにこそ物語が生まれる。それが大事なのよ。そういう物語に、人は心を動かされるんだから」
――時代が変わると、笑いも変わるものですか。
「変わります。昭和の笑いには、下の者が上の者をちゃかす快感があってね。偉い社長さんをごまかし、インチキするサラリーマンの姿が笑いをとっていた。すき焼きの場面で、ネギで肉を隠しながら食べる姿がおかしかった。笑いというのは貧しい大衆、ちょっとダメ扱いされている人間たちの反撃でもあったの。でも日本が豊かになると、すき焼き自体が珍しくなくなり、社長さんにも文句を言うようになって、反撃の笑いが成り立ちにくくなってきた」
――時代は巡り、いま再び、貧困と格差が広がっています。
「笑いはみんなの共感を呼ぶものに敏感だから、本当に大変な時代が来たら貧困も格差もネタにすると思うよ。笑いは必ず時代に追いついてくる。それに笑いには、直接は言えないことを遠回しに伝える大事な働きもあるんです。みんな何かヘンだなあと思っていることを、笑いが社会に広く伝えるということがあるの」
――これから、どんな新しい笑いが生まれるのでしょう。
「なんだ、こんなことが笑いになるのか、という何かでしょう。これまでのジャンルには収まりきらない何か。本当に新しい何かが生まれるときはラベルから変わるもの。僕らだって最初、コントって何ですか、漫才とどう違うんですかって聞かれて困り、さあ何ですかねえって答えてたもん」
――もしかして、その「何か」をいま大学で探しておられる?
「うっ。まあ、そのー、大学に通って若いのに毎日会っているうちに、僕のなかの何かが変わって、結果的に何か新しい笑いが見えてこないかなあっていう気持ちが、実はないこともないんだけど。まだ、いいことないなあ」
――いまも現役なんですね。
「もちろん。生まれ変わってもコメディアンだよ。ただ、またダメなコメディアンから出発したいね。ダメな若い奴が上を目指してもがく姿に、支えてやろうって気持ちが生まれたんだと思うから」(聞き手・萩一晶)
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41年生まれ。60年に浅草東洋劇場入り。66年にコント55号結成。「欽ドン!」など冠番組も人気を集めた。「仮装大賞」では司会を務める。
2015.7.11 朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASH785CSZH78UPQJ00G.html
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