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2人のエース、互いをたたえる 斎藤と田中
2006年08月21日

9回2死、早稲田実の斎藤が打席の駒大苫小牧のエース田中に対し力を振り絞る。118球目。144キロの直球で空振り三振。両手を突き上げた斎藤を中心に早稲田実選手の歓喜がはじけた。


4連投の斎藤はこの2日間、一人で296球を投げ抜いた。ピンチにも表情を変えなかった右腕が優勝にひたすら泣いた。「疲れはあった。でも人生最大の幸せな一日です」。昨夏、西東京大会準決勝で感情の起伏を突かれて打ち込まれコールド負け。以来、どんなことがあってもポーカーフェースを決めてきた。

ピンチにも動揺が表に出ない理由を斎藤は「仲間を信じる心が余裕を生んだ」と明かす。6回に本塁打を許し1点差に追い上げられると、すかさず野手から「1点ぐらい取り返してやる」と声が飛んだ。その裏、言葉通りに味方が捕手白川の適時打で1点を加えた。

チームの結束力を生んだ試合がある。今年3月31日。選抜大会準々決勝で横浜に3―13で完敗した。マウンド上で踏ん張る斎藤の姿を見て、チームは考えた。「走塁判断を磨いて、長打力のなさを補おう」。この日の7回2死二塁。4番後藤の左前安打で二塁走者の川西が判断よくホームへ滑り込んだ。「ぼくらの野球が出来た」と川西は胸を張る。

第1回大会(15年)から参加し、王貞治・プロ野球ソフトバンク監督らが輩出した早稲田実。第11回(25年)と、荒木大輔(西武コーチ)を擁した第62回(80年)の2度、準優勝に終わった。その壁を越えた。「大先輩たちが成し遂げられなかったことをできてうれしい」。斎藤が喜ぶ。

そんな歓喜に沸く早稲田実ベンチをじっと見つめる選手がいた。2日間で249球を投げた田中だ。「悔いはない」。淡々と語った。

大会史上、2校目となる3連覇がかかった試合だった。3大会連続で決勝に進んだのは、7~9回大会の和歌山中(現桐蔭)、3連覇した中京商、65~67回の桑田真澄(巨人)と清原和博(オリックス)を擁したPL学園(大阪)、そして駒大苫小牧だけ。香田監督は「1回目より2回目、さらに3回目のほうが周りの意識もあり厳しかった」と言った。全国選手権の連勝は14で止まった。

スタンドに人気が消えたころ、両校ベンチ前で胴上げが始まった。


「同世代で一番いい投手」(斎藤)、「最後まで力を残すところにすごさがあった」(田中)。相手エースをたたえた2人の姿も、それぞれの輪にあった。




最後の球は決めていた 斎藤佑樹投手
2006年08月22日


マウンドで、早実のエース斎藤佑樹君は右足で10回ほど土を固めた。次の1球で終わりにする。感謝の意味を込めた。

打者に向かい、左手のグラブを胸の前に持っていく。その中で右手でボールを握る。サインにうなずき、左足を半歩ひく。体を右後ろにひねりながら左足を大きく上げると、踏み出した。



144キロの直球がミットに収まった。本当に最後の1球になった。

小学1年で兄と野球を始めた。夕飯後、父に「トレーニングしないとうまくならないぞ」とはっぱをかけられ、泣きながら腕立て伏せをした。負けん気が強かった。

中学軟式野球部の3年間、遠投を肩が疲れるまで毎日続けた。肩やひじを故障したことはこれまで一度もない。球速を決める右脇の後ろの広背筋は、張り出すほどだ。

何度も変化を遂げ、挑んだ大会だった。

昨年の西東京大会、準決勝で日大三にコールド負けした。以来、マウンドで感情を封印した。投手の生命線と言われる内角の直球に磨きをかけた。今春の選抜大会では、3連投となる横浜(神奈川)戦で大敗した。スタミナをつけるため、走り込みを繰り返した。

この夏が始まる前、捕手の白川英聖君と決め球を決めていた。これまでの試合で、打者を抑えた最後の1球と打たれた球を書き出すと、抑えた球のほとんどが直球だった。その「一番最後に投げる得意の球」で、夏を締めくくった。

69回登り、948球を投じた甲子園のマウンド。試合後、ひとり駆け出すと土を袋に入れた。(五十嵐聖士郎)

◆「部員・スタンド、全員主役」

試合後のグラウンドで、斎藤佑樹君は取材陣の質問に答えた。

――優勝を決めた瞬間、何を思った。

和泉監督を優勝監督にできたのが一番うれしいです。
やっぱり自分をここまで成長させてくれたのも和泉監督だと思うので感謝しています。

――疲れはあったでしょう。

はい。でも最後なんで気持ちで絶対負けないようにしようと思ってました。今まで戦ってきた仲間が土壇場で逆転してくれたり、ほんとに仲間を信じることが余裕につながったんだと思います。

――お母さんにはどんな報告を。

こんなに連投しても大丈夫な体に生んでくれてありがとうと言いたいです。

――9回に本塁打を打たれた。

打たれた瞬間はやばいなと思ったんですが、どっちにしろスリーアウトとるのは一緒なんで、ここから3人で抑えればいいという感じで投げました。

――最後まで勝ち残ることがこの夏の主役、と言っていたが。

自分が主役と言うよりは、早稲田実業野球部、アルプススタンドのみんなも含めて全員が主役だと思います。

――高校野球が終わってまず何を。(群馬の)実家に帰りたい?

それが一番です。




駒大苫小牧・田中 ワンマンから全員野球へ
2006年08月21日


3点を追う9回。駒大苫小牧の選手は、誰もあきらめていなかった。

「(田中)将大が頑張ってくれている。なんとか塁に出ないと」。

中沢竜也君は、こんな思いを込めて打席に入った。

スライダーをフルスイング。打球はバックスクリーン横に飛び込み、1点差に。だが、後が続かずゲームセット。

田中君が、泣き崩れる本間篤史主将の左肩をいたわるように抱き、声をかけた。

「よくやった」

香田誉士史監督は「最後の最後まで一体となったプレーが見られ、本当に良かった」と、選手の健闘をたたえた。

苦戦を強いられた初戦の南陽工(山口)戦。香田監督は、ベンチで田中君に気をつかう選手たちに、何かよそよそしさを感じていた。

原因は春の選抜大会の辞退にある。夏の甲子園出場が至上命題になり、地方大会は危険を冒さない采配になった。7試合中1イニングを除き、すべて田中君が投げ、「絶対的なエース」にしてしまった。

3回戦の青森山田戦、香田監督は「一種の賭けに出た」。田中君を先発から外した。最大6点差が開いたが、終盤、驚異的な集中打で青森山田に追いすがる。気がつくと得点が入るたび、田中君にほかの選手たちが抱きついている。チームに一体感が戻っていた。

昨夏の地方大会から今夏の準決勝までに積み上げた公式戦の連勝は48。だが、監督も選手も「自分たちはチャレンジャー」と言い続けた。

6月にあった選抜優勝の横浜(神奈川)との練習試合。無死一塁でもあえて送りバントはせず、敗戦。香田監督は「負けた方が良いと思った。自分たちの力の無さが分かったはず」と話す。

常に挑戦者として攻める姿勢を保ち続ける。それが「チャレンジャー」という言葉になった。

「(3連覇という)記録のためにやってきたわけではない。良い勝負で終われて、少しほっとしている」。試合後、香田監督は苦しかった胸の内を語った。



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