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【9月19日】1985年(昭60) 

 【中日8-1巨人】「さあ、行くか!」。中日ナインの誰ともなくそんなかけ声が上がった。中日の大勝で終わった巨人最終戦。試合後、ナゴヤ球場のマウンド付近に男たちの輪ができると、身長1メートル85の背番号4が押し込まれるようにその中心へ。気がつけば体重95キロの巨漢が持ち上げられ、星空に向かって舞っていた。

 1回、2回、3回…気持ちよさそうに胴上げされたのはケン・モッカ三塁手。メーンのセレモニーが終わると、余韻に浸るかのようにチームメイトひとりひとりと固い握手を交わし、抱き合った。「ドーモ、アリガトー」。日本に来て最初に覚えた言葉の1つを何度も繰り返すたびに、青い瞳から熱いものが流れ出た。勝負強い打撃でファンに愛され、元大リーガーのプライドを振りかざさず、日本流の練習、習慣に従ってチームに溶け込んだモッカは外国人としては初めて胴上げされて引退した選手となった。

 メジャーでわずか1本塁打も、来日した82年から4年間の通算成績は3割4厘、82本塁打、268打点で勝利打点34。勝負強い打撃でドラゴンズ史上屈指の外国人選手と評されたが、35歳の年齢からくる守備の衰えは否めず、首脳陣期待の藤王康晴内野手の育成強化の方針が決定すると、フロントは9月12日、甲子園での阪神戦を前に非情の戦力外通告をした。

 普通なら即座に荷物をまとめて帰国するのが外国人選手のこれまでだったが、モッカは「退団は受け入れる。その代わり最後の巨人戦まで置いてくれ」と最初で最後の“わがまま”を言った。球団としても、82年リーグ優勝の功労者である選手の解雇には断腸の思いだっただけに「できることは何でもする」と約束。球団は地元での巨人最終戦を事実上モッカの“引退試合”と決めた。

 モッカが巨人戦まで、としたのは忘れられない思い出があったからだった。来日1年目の82年9月28日、巨人24回戦(ナゴヤ)で4点差を跳ね返し、サヨナラ勝ちで8年ぶりの優勝に向けてマジック12を点灯させた試合で、江川卓投手から反撃ののろしを上げる21号ソロ本塁打をセンターへ放った。9回には右前打で逆転勝ちに貢献。優勝へ大きく前進した会心のゲームを「4年間のベストゲーム」と話していた。自らの日本での野球人生のフィナーレは思い出深い巨人戦で、というのがモッカの最後の願いだった。

 最後までチームのために何かできることはないか、という姿勢を貫いた選手だった。ファンサービスの意味もあっただろうが、イニングの合間の投球練習では、準備中の中尾孝義捕手に代わって、元捕手だったモッカはミットを持って投手の球を受けた。

 7回二死、7番・尾上旭三塁手の代打として登場。巨人・西本聖投手のシュートにつまり、ボテボテの三ゴロに倒れたが、別れの一打は前日18日の巨人25回戦で左前適時打を放って済ませたとばかり笑顔で退いた。モッカがベンチに下がった後も3万5000人の観衆からの拍手は鳴り止まず、「出番は1打席だけ」と決めていた山内一弘監督もこれに応えずにはいられなくなった。急きょ三塁の守備に就かせると、巨人ファンからも大拍手を浴びた。9回、篠塚利夫二塁手のゴロをお手玉して“お家芸”のシーズン24失策目をしても拍手。失策王・宇野勝遊撃手とともに三遊間でシーズン計50失策という本来なら笑えない記録も“愛嬌”と許される、そんな憎めない選手だった。

 年俸2700万円の破格の安さで来日。「日本でプレーするからには日本のことを知らなくては」と、マージャンを覚えて遠征先で卓を囲み、将棋も駒そのものに進み方を英語で記すなどしてマスターしようとした。当時はビジターの試合で日本旅館に泊まることも多かったが、チームメイトとともに畳の部屋で布団を敷いて眠り、名古屋でのマンションも家賃8万5000円の畳部屋が2つある部屋を使っていた。ただ、名古屋では同僚が飲みに誘っても頭に指を2本立て夫人が“鬼になる”と言っては、ほとんど夜の街に繰り出さなかった。

 帰国後はマイナーリーグのコーチ、監督を務め03年から4年間はオークランド・アスレチックスの監督。「日本で学んだ“耐えること”」を精神的な柱にしてアメリカンリーグ西地区で優勝2回、2位2回の成績を残した。中日の球団内部では監督としてもたびたび名前が挙がっており、監督として日本球界復帰もありうる外国人OBの一人である。

【2008/9/19 スポニチ】
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