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【10月5日】2005年(平17) 

【阪神3-2横浜】“お約束”のイニングを過ぎると、毎回ピンチに見舞われた。いつもならここで投手コーチが出てきて「ご苦労さん」たが、この日は納得いくまで投げたかった。

 2年ぶりにセ・リーグの覇権を奪回した阪神は、この日の横浜戦が05年ペナントレース最終戦。消化試合ではあったが、8月3日以来の勝率5割復帰へあと1勝の横浜と阪神の先発、下柳剛投手にとっては真剣勝負そのものだった。下柳にはプロ15年目にして初のタイトルとなる最多勝がかかっていた。

 下柳はここまで14勝3敗の好成績をマークしていたが、1試合あたりの投球回数は平均5回3分の1。中継ぎ、抑えにジェフ・ウイリアムス、藤川球児、久保田智之投手の“JFK”がおり、勝利投手の権利ギリギリのところで交代しても白星が積み重さなっていった。

 しかし、最多勝をかけた試合は5回を終了した時点で2-1と横浜がリード。いつも通りの回数で降板すれば、敗戦投手となるばかりか、登板機会が今後もある同じ14勝の広島・黒田博樹投手に抜かれる可能性が大きくなり、タイトル獲得が夢に終わってしまう。下柳は最後の最後で勝ち越すまではマウンドを降りることが出来ない状況で投げなければならなかった。

 6回、2番・鳥谷敬遊撃手が、こちらも奪三振王のタイトルを目指し力投する横浜・門倉健投手から右翼へ8号同点ソロ本塁打を放ち、安堵したのもつかの間、下柳は6回以降、毎回走者を背負う苦しい投球。横浜の拙攻に助けられ、何とか沈まずに浮いていたが、スタミナが心配さいつやられてもおかしくはなかった。。

 9回、二死一、二塁も金城龍彦右翼手をセカンドライナーに打ち取って切り抜けると、2年ぶりに“完投”。しかし、勝負はまだついていなかった。試合は2-2の同点のまま延長戦に。10回、無精ひげの男はまたマウンドに向かって歩みはじめた。

 小雨がそぼ降る中、プロ入り499試合目の登板で初めて未知の投球回数となる10回にのぞんだ。「9回で代えようと思ったけど、ピッチングコーチもシモも、あと1回言うてたしなあ」。阪神・岡田彰布監督は、下柳と久保康生投手コーチの気迫に押される形で続投を支持した。

 一死二塁のピンチを切り抜けると球数は計148球にものぼった。これ以上はさすがに…。阪神ナインの誰もがそう思った矢先のことだった。「100球以上も投げて頑張っていたので何とかしたかった」。その一心だけでバットを振り抜いたのは、同点弾を放ち、後ろから背番号42の執念の投球を見ていた鳥谷。今度はリリーフの加藤武治投手のスライダーを左中間へ。打った瞬間それと分かる、9号サヨナラ本塁打がスタンド中段で弾んだ。

 ベンチ奥でユニホームを着替えていた下柳が、ベルトを外したままの姿で慌てて歓喜の輪に加わった。「ありがとな、ありがとな」。勝利投手になっても淡々としている男が15勝目をもたらした13歳年下の選手に大はしゃぎで握手を求め、最高の笑顔を見せた。

 ヒーローインタビューが大嫌いで、時には逃げ出すこともあった下柳もきょうだけは、素直にお立ち台に立った。「本当にありがたいこと。皆さんのおかげです。きょうは行けるところまで行こうと思った」。これだけしゃべるだけでも、阪神ファンは驚きだった。今岡誠内野手が球団新の147打点を記録し、下柳の最多勝も確定的になったシーズン87勝の球団タイ記録で幕を閉じた最終戦。「最高の形やな」と岡田監督は上機嫌で甲子園を後にした。

 結局、黒田がもう1勝して15勝となり、タイトルは2人が肩を並べて受賞することになったが、下柳の最多勝には付加価値があった。37歳での受賞は阪神往年の名投手、“七色の変化球”といわれた若林忠志投手が戦時中の1944年(昭19)に22勝4敗で獲得した36歳を上回り、61年ぶりに最年長記録を更新。下柳は規定投球回数に届かなかったが、これは88年にヤクルトの伊東昭光投手が18勝9敗で最多勝となって以来2人目だった。さらに細かく言えば、先発専従で規定に達せず、最多勝になったのは下柳が初めてだった。

 08年で40歳になった下柳。通算100勝もクリアし、老獪な投球術はまだまだ一線で通用する。かつてテレビ番組で下柳は、漫画「野球狂の詩」の名キャラクター、岩田鉄五郎になると話したことがあった。鉄五郎は50歳を過ぎても投げ続けた。下柳のプロ野球生活はまだまだ道半ばなのかもしれない。

【2008/10/5 スポニチ】
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