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【9月7日】1987年(昭62) 

 新大阪駅で阪神・吉田義男監督はついに核心を口にした。「進退については会社が決めることだが、けじめはつけたいと思っている」。

 移動日恒例のトラ番記者との懇談会。深刻な成績不振、故障者続出、6月に竹之内雅史打撃コーチが急きょ退団するなどの内部分裂に陥った阪神はシーズン中に建て直しがきかないほどのチーム状態だった。

 21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制後初の日本一の栄光からわずか2年。残り23試合のこの時点で32勝69敗6分けのダントツの最下位。球団フロントは来季を見据え、水面下で動きを活発化させていたが、それを察して吉田監督は自らの考えを番記者に伝えた。

 しかし、球団の一部は吉田監督続投の線を模索していた。悲願だった日本一を達成した監督として、3年で首を切るのはしのびなかった。田中隆造名誉会長(前オーナー)ら吉田支持派の構想としてはコーチ陣を一新しての出直し案だった。

 しかし、吉田監督はコーチ陣との「一蓮托生」を決めており、コーチ陣を総取り替えして自分だけ残ることは、自身のポリシーに反した。吉田支持派による延命策は現実的には厳しい線だった。

 吉田続投に待ったをかけたのが、久万俊二郎オーナーだった。「あの優勝は多分に運が味方した」と吉田監督の手腕はそれほど評価していなかった節があった。加えて、選手の心が監督から離れてしまっているのは致命傷だった。日本一をもたらしたランディ・バース一塁手は「監督が代わらなければ阪神ではやりたくない」とまで周囲に話していた。

 久万オーナーが吉田続投に難色を示したもう1つの理由に、3年前の“事件”が背景にあったことも無関係とはいえなかった。

 84年オフ、安藤統夫監督続投で決まっていた監督人事が安藤監督の突然の辞任で後任探しをすることになり、当時の阪神電鉄の久万社長は村山実元監督を推した。小津正次郎球団社長が交渉役に当たり、村山の内諾までえていたが、これをひっくり返したのが、田中オーナーだった。「新監督は吉田で行く」のツルの一声で決定。久万社長は自ら出向き、村山元監督にワビ入れざるを得なかった。

 3年が過ぎ社内の人事も大きく変わり、田中前オーナーの発言権は「吉田内閣の崩壊によってほとんど効力がなくなった」(有力OB)ことで、実権は久万オーナーが握っていた。

 「監督人事のことはまだ何も決まっていない。吉田監督の続投は十分ある。まあ、吉田監督がイヤと言うならあきらめざるを得ませんが…」と久万オーナーは吉田辞任発言を受けてそう言った。同オーナーは3年前のいきさつから村山新監督誕生に向けて動き出していることは、もはや公然の事実だった。

 10月10日、最終戦の大洋26回戦(甲子園)を8―6で勝った吉田監督は、その2日後に解任された。一時は続投に意欲を見せていた吉田監督だが、球団創立以来最多の83敗を喫し、あらゆるワースト記録を残した指揮官に来年の芽はなかった。紛糾した緊急役員会で8時間に及ぶ話し合いの上、引導を渡された吉田監督は功労金3000万円と引き換えに、2度目の政権を終えた。


【2010/9/7 スポニチ】

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